聖書日課 マルコによる福音書3章(新共同訳 新約pp.65-66)
「イエスはまた会堂にお入りになった。そこに片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた」(1~2節)。
一体どういうことだろうか? 病気を癒すことで、訴えられるとは! しかし、これがイエス・キリストの時代の信仰の現実だった。
人々が「注目していた」のは、イエス・キリストが「安息日にこの人の病気をいやすかどうか」であった。病気を癒すことは、医者にとっての〈仕事〉である。それ故、「いかなる仕事もしてはならない」(出エジプト記20章10節)という安息日の律法に違反しているというのが彼らの考えであった。
しかし、安息日の戒めの目的は、〈仕事をしない〉ことにあるのではない。家族も奴隷も家畜も、全ての命ある者が、共に主なる神を想い、主なる神と交わり、主なる神を礼拝することによって、心身の休みを得ると共に、主なる神の恵みの御業を喜び、感謝し、ほめたたえることにあった。そうすることで、神の民は、生きる力を新たにすることが出来た。安息日に普段の仕事を離れる必要があったのは、そのためであった。
そういう本質がいつの間にか忘れ去られ、〈してはならない〉ということばかりが強調されるようになった。そして、自分も人も律法を破ることがないよう、神経を尖らせるようになった。それがいわゆる〈律法主義〉と呼ばれる信仰の姿である。そのため、手が萎えている人が癒されるという素晴らしい奇跡が起こっても(5節)、その人と共に喜ぶどころか、律法が破られたことに怒りを覚え、イエス・キリストを殺そうと相談さえした(6節)。それが当時の宗教家の現実だった。
しかし、この時怒りを覚えたのは、宗教家だけではなかった。イエス・キリストもまた、彼らの頑なな心に怒りと悲しみを覚えられた(5節)。
聖書の教えの本質を明確に理解し保つことは、とても大切である。教会の伝統も規則も、その本来の趣旨が忘れられると、形式化した律法主義に陥る危険があるからである。常に御言葉に立ち帰り、本質を生きる者でありたい。