聖書日課 マタイによる福音書1章(新共同訳 新約pp.1-2)
今日から新約聖書を読んでいく。新約聖書は「系図」から始まる。読み辛い名前が並んでいるので、いきなり躓く人もいるかも知れない。
しかし、旧約聖書を知っているなら、この「系図」に喜ぶ人も多いだろう。これは、「アブラハム」以来、いや人類の堕落以来、約束されて久しく待ち望まれてきた救い主の系図だからである。
旧約聖書最後のマラキ書が書かれてからイエス・キリストがお生まれになるまでの約400年、新たに主なる神の御言葉が語られることはなかった。この時代は〈中間時代〉と呼ばれている。また、主なる神の御言葉が語られなかった暗黒の時代と言われることもある。
しかし、だからと言って、主なる神が約束を反故にされたわけでも、主なる神の御業がなくなってしまったわけでもない。救い主誕生の約束は、暗黒の時代と呼ばれる中間時代にも、実現に向けて着々と進められていた。それ故、マタイによる福音書の「系図」は、主なる神の支配と御業は決して途切れることがなく、主なる神は私達を決して見捨てないということを伝えている福音(グッド・ニュース)でもある。
18節からは、救い主イエス・キリストの誕生の出来事が記されているが、これについて、マタイはこう言っている。
「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」(22~23節)。
主なる神は預言者を通して、「インマヌエル」と呼ばれる救い主をこの世に生まれさせて下さることを約束された。インマヌエルは「神は我々と共におられる」という意味である。つまり、主なる神はどんな時にも私達と「共におられ」、私達の味方となり、命を懸けて愛して下さるということである。イエス・キリストがお生まれになったのは、実にそのためである。
「では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに賜らないはずがありましょうか」(ローマの信徒への手紙8章31~32節)。
このイエス・キリストを、あなたも迎え入れているだろうか。
祈り
愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの大きな愛と恵みの中に私達を置き、御前に引き寄せて下さったことを心から感謝致します。
主よ、私達はなかなか自分の基準と自分の方法という高慢から抜け出せずにいます。しかし、そのような私達のために、あなたは十字架にかかり、罪の呪いを打ち砕いて赦して下さいました。あなたの十字架の贖いによって、私達は救われ、あなたのものとされました。
主よ、あなたはこのような者と共にいて下さいます。このような者の歩みを支え、歩けなくなった時には背負って下さることを、心から感謝致します。
どうか、自分の罪を意識する時、それをあなたに差し出すことが出来るよう助けて下さい。気付いていない罪も沢山あると思います。御霊によってそれらを示された時、それをあなたに告白することが出来るようお導き下さい。
全ての罪から私達を清めて下さるあなたの十字架の血を日々経験しながら歩むことが出来るよう導いて下さい。
感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00
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