聖書日課 ヨシュア記10章(新共同訳 旧約pp.354-356)
「ギブオンの住民がイスラエルと和を結び、彼らのうちに住むことを許されたことを聞くと」(1節)、他の王たちは連合軍を組んで、「ギブオン」に「戦いを仕掛けた」。この連合軍は「アモリ人の五人の王」と記されている(5節)。
そこで、「ギブオンの人々」はイスラエルに援軍を要請し(6節)、ヨシュアはイスラエル軍を率いて駆けつけることにした(7節)。
ここに、主の御名による契約の素晴らしさを見ることが出来る。
主なる神は契約の神である。ご自身の御名の栄光のために、主なる神は契約を守られる。だから、イスラエルもギブオンとの契約に誠実に応えた。
私達がイエス・キリストを信じることは契約である。しかもそれは〈新約〉であって、ヨシュアの時代の契約より、更に優れた契約である。イエス・キリストを信じる者を、主なる神は見捨てることなど有り得ない。主は援軍を送って下さる。
さて、イスラエルの人々にとって、このような連合軍を相手にするのは初めてである。数からしても、今までで最大規模の戦いである。恐れが生じないわけがない。
しかし、主なる神はヨシュアに言われた。
「彼らを恐れてはならない。わたしは既に彼らをあなたの手に渡した。あなたの行く手に立ちはだかる者は一人もいない」(8節)。
目に見える条件だけで、私達は恐れる。困難が大きかったり、多かったりすると恐れる。逆に、小さかったり、少なければ侮る。人生で直面している困難の大小が問題ではない。
大切なことは、主なる神の御言葉がヨシュアに臨んだように、私達と共にあることである。「彼らを恐れてはならない」と言われる主なる神の御言葉があれば、大丈夫である。
「主よ、わたしの僕が中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」とイエス・キリストに申し出た百人隊長は、「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます」と述べている(マタイによる福音書8章6節、8節)。
「帰りなさい。あなたが信じたとおりになるように」という御言葉があれば(同13節)、それはイエス・キリストが来て下さり、癒して下さったことと同じだからである。
主なる神の御言葉があれば、主なる神が共におられるのと同じである。
主なる神は、カナンの地に入って行くにあたり、ヨシュアに「わたしはモーセと共にいたように、あなたと共にいる。あなたを見放すことも、見捨てることもない」と宣言された(1章5節)。まさに、ヨシュアにご自分を示された主なる神は〈私達と共におられる神〉(インマヌエル)である。
今日も、主なる神の御言葉を携えて進もう。御言葉を通して、主なる神は私達と共におられることを、体験させて下さる。
西原新生バプテスト教会
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