聖書日課 マラキ書2章(新共同訳 旧約pp.1497-1499)
「あなたたちは、自分の語る言葉によって/主を疲れさせている。それなのに、あなたたちは言う/どのように疲れさせたのですか、と」(17節)。
人間の語る言葉が、天地を造られた主なる神を「疲れさせ」るなどということがあるのだろうか。それがある。人間を愛する主なる神は、人間の一挙手一投足を御覧になっており、喜んだり、悲しんだり、怒ったり、褒め称えたりされる方だからである。では、一体どのような言葉が「主を疲れさせ」たのか?
「あなたたちが/悪を行う者はすべて、主の目に良しとされるとか/主は彼らを喜ばれるとか/裁きの神はどこにおられるのか、などと/言うことによってである」(17節)。
「悪を行う者が栄え、真面目に主に仕えてきた自分達が苦労しているなどおかしいではないか! 神の裁きなどないのだ! 神様は悪を行う者を喜ばれるのだ」という人々の不満と不信の声が、「主を疲れさせ」た。
彼らの根深い不満と不信は、声だけでなく、既に行動に現れていた。それは主に仕える祭司達にまで及んでいた。本来ならば主なる神の真理を教え、人々を罪から立ち帰らせる役目を果たすべき祭司達が、「道を踏みはずし/教えによって多くの人をつまずかせ」(8節)、「民のすべてに軽んじられる価値なき者」となってしまっていた(9節)。
主に仕える祭司を軽んじる民も、大きく道を踏み外していた。彼らは、経済的に有利な「異教の神を信じる娘をめと」り、そのためにユダヤ人の妻と離縁することまでしていた。これは妻への裏切りであると共に、夫婦の「契約」をした主なる神に対する裏切りでもあった(10~15節)。
周りの状況が自分の思うようにならない時、人は、不平不満で一杯になり、主なる神の御心と公義を疑い、自分の好き勝手な道を歩み始める。その結果、生きる希望と意欲を失い、倦怠と自暴自棄の日々を送ることになってしまう。
自分の思いを優先させる時、私達は、主なる神の御前に謙ることを忘れる。悲劇は、そこから生まれる。
「レビと結んだわが契約は命と平和のためであり/わたしはそれらを彼に与えた。それは畏れをもたらす契約であり/彼はわたしを畏れ、わが名のゆえにおののいた。真理の教えが彼の口にあり/その唇に偽りは見いだされなかった。彼は平和と正しさのうちに、わたしと共に歩み/多くの人々を罪から立ち帰らせた。祭司の唇は知識を守り/人々は彼の口から教えを求める。彼こそ万軍の主の使者である」(5~7節)。
西原新生バプテスト教会
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