聖書日課 マラキ書1章(新共同訳 旧約pp.1496-1497)
神殿再建から長い年月が経過した。しかし、人々の生活は一向に良くならず、貧富の差も次第に大きくなり、社会には不正や悪が蔓延るようになっていた。そのような中、以前は熱心に主に仕えた人々の信仰も次第に冷めて来つつあった。そして、彼らは主なる神に対し不信感や疑問を持つようになっていた。
「わたしはあなたたちを愛してきたと/主は言われる。しかし、あなたたちは言う/どのように愛を示してくださったのか、と」(2節)。
この疑問に対して与えられた主なる神の答えは、イスラエルに対する選びの愛であった。
「エサウはヤコブの兄ではないかと/主は言われる。しかし、わたしはヤコブを愛しエサウを憎んだ。わたしは彼の山を荒廃させ/彼の嗣業を荒れ野のジャッカルのものとした」(2~3節)。
主なる神はイスラエルを「愛し」選ばれた。それ故、彼らをエジプトから救い出し、カナンの地で素晴らしい繁栄を与えられた。それは彼らが優秀だったからでも、努力したからでもない。それはただ主なる神の愛と恵みによる賜物だった。
しかし、人々は、状況が自分達の思い通りにならないことに苛立ち、主なる神の愛を疑った。そのため、彼らは、主なる神の「祭壇」に「汚れたパン」や「目のつぶれた動物」、「足が傷ついたり、病気である動物」を献げた(7~8節)。何という侮辱! 何という恩知らずだろうか! その上、彼らは「我々はどのようにして御名を軽んじましたか」と言って開き直りさえした(6節)。
「何と煩わしいことか! 献げさえすりゃいいんだろう!」…これが彼らの信仰(?)だった。そして、自分達が主なる神に対してしていることは棚に上げて、主なる神が自分達にしてくれないことに不平・不満をぶつけていた。果たしてこれが信仰と言えるだろうか?
信仰とは、主なる神の愛に対する心からの感謝であり、それ故に主なる神に最高のものを進んで献げようとする愛であり、そして、主なる神の恵みに対する全幅の信頼と従順である。
祈り
愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの大きな愛を注ぎ、御前に引き寄せて下さったことを心から感謝致します。
主よ、あなたは私達を選んで下さり、今日も新しい恵みを注いで下さいます。あなたの愛に心から感謝致します。あなたの愛と恵みに対して、私達も感謝をもってあなたに最高のものを進んで献げることが出来ますよう導いて下さい。
主よ、あなたの僕お一人お一人にあなたの御霊を注いで下さい。私達を取り巻く状況が思わしくない時にも、あなたの御霊に満たされ、いつも新しい感動と感激をもってあなたを告白し続けることが出来ますように。
主よ、あなたの御言葉を伝えるためにあなたがお召しになった牧師や伝道者、宣教師を顧み、満たし、導いて下さい。礼拝を導くことに疲れを覚えている方もいるかも知れません。力の不足を感じている方もいるかも知れません。私も力の不足を感じます。あなたの群れを導くことが出来るよう力づけて下さい。
感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00
〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
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