聖書日課 エゼキエル書39章(新共同訳 旧約pp.1360-1362)
本章では、終わりの日に「ゴグ」が世界中の悪を結集してイスラエルに攻め上って来るけれど、主なる神の手によって滅ぼされ、遂にイスラエルに真の平和が訪れることが預言されている。
「それゆえ、主なる神はこう言われる。今やわたしはヤコブの繁栄を回復し、イスラエルの全家をわが聖なる名のゆえに熱い思いをもって憐れむ。彼らは自分の土地に安らかに住み、脅かす者がいなくなるとき、わたしに背いた恥とすべての不信の罪の責めを担う。わたしが彼らを諸国の民の中から帰らせ、敵の地から集めるとき、わたしは国々の前で、彼らを通して自分の聖なることを示す」(25~27節)。
ゴグがイスラエルに攻め上ることも、彼らが滅び去ることも、全ては主なる神の御計画によってなされたことであり、彼らは主なる神の道具として用いられたに過ぎない。それは神の民イスラエルの「不信の罪」を裁いて、彼らを本来の姿に立ち帰らせるための計画だった。
ところが、ゴグとその仲間は、自分達の知恵と力を誇り、傲慢になって、思うがままを行った。そのため、彼らは結局滅ぼされてしまった。それは、北イスラエル王国を滅ぼしたアッシリアや南ユダ王国を滅ぼしたバビロンと同じである。彼らもまた、その傲慢と罪の故に滅び去っていった。
イスラエルが滅ぼされてバビロンに捕囚として捕らえ移されたのは、彼らの「不信の罪」の故だった。彼らは主なる神の教えに背き、主なる神から離れて偶像に仕え、弱者を虐げ、自分の欲望のままに歩んだ。しかし、主なる神は決して彼らを見捨てられなかった。主なる神は彼らを懲らしめ、その傲慢を打ち砕いて清め、彼らの不信仰と不義を赦して、再び神の民として立たせて下さった。
旧約聖書に記されている歴史は、神の民イスラエルの不信の歴史であり、主なる神の赦しの歴史である。しかし、それは私達の歴史でもある。私達の不義と不信の罪を、どこまでも赦して下さる主なる神がおられる。そのことの故に私達は今こうして生きている。いや、生かされている。それは、私達によって主なる神の愛と聖がこの世に示されるためである。
「…『そのとき、彼らはわたしが彼らの神、主であることを知るようになる。わたしは二度とわが顔を彼らに隠すことなく、わが霊をイスラエルの家に注ぐ』と主なる神は言われる」(28~29節)。
西原新生バプテスト教会
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