ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

主日礼拝宣教(要旨) 2024年1月28日

主日礼拝宣教(要旨) 2024年1月28日
ヨハネによる福音書6章1~15節(新共同訳 新約p.174)
「パンのしるし」

「さて、イエスはパンを取り、感謝の祈りを唱えてから、座っている人々に分け与えられた。また、魚も同じようにして、欲しいだけ分け与えられた」(11節)。
 イエス・キリストの御言葉を聞くために5千人以上の人々が集まってきたが、集会が長引いて時間も遅くなっていた。主は、霊的な食物だけでなく、空腹を満たすために食事を提供しようとお考えになった。
 そこで、イエス・キリストは弟子のフィリポに、「この人たちに食べさせるには、どこでパンを買えばよいだろうか」と言われた(5節)。これは「フィリポを試みるためであって、御自分では何をしようとしているか知っておられた」(6節)。「フィリポを試みるため」とあるように、これはイエス・キリストのテストだった。弟子達の信仰に対するテストである。
 学校や塾でテストがあるのは、学んだことが身に着いているかどうかを見るためである。その結果、理解出来ていない箇所も分かって、成長に役立てる。
 それと同じように、イエス・キリストも私達を時々テストされる。それは、私達に信仰が身に着くためのテストである。日々の出来事には、イエス・キリストからのテストが込められている。あなたはどう応えるか。どう応答するか。
 フィリポは良識もあり、計算も長けた人だったようである。主の提案に対して「めいめいが少しずつ食べるためにも、二百デナリオン分のパンでは足りないでしょう」と算出した(7節)。計算は正確である。しかし、机上の計算だけで問題は解決しない。
 次に、アンデレが「大麦のパン五つと魚二匹」を持った少年を連れて来た。机上の計算で悩むフィリポとは違って、アンデレは具体的に行動した。しかし、アンデレも「こんなに大勢の人では、何の役にも立たないでしょう」と嘆いた(9節)。
 私達は、困難の時、弟子達のように〈どれだけ持っているか〉を問題にする。お金がいくらあるだろうか。能力や技術があるだろうか。人数が足りない、時間が足りないと、〈どれだけ持っているか〉に注目する。
 何故なら、この世では〈どれだけ持っているか〉がものを言うからである。しかし、主なる神の世界では、〈どれだけ持っているか〉ではなく〈誰が持っているか〉が重要である。
 私には何がどれくらい出来るだろうか。それは〈どれだけ持っているか〉の問題である。時間があるだろうか、お金は足りるだろうか。それも〈どれだけ持っているか〉の問題である。5つのパンと2匹の魚では何の役に立つだろうか。これも〈どれだけ持っているか〉の問題である。
 弟子達は、5つのパンと2匹の魚をイエス・キリストに手渡した。少年の手にあればそのままだが、主の御手にある時、それは5千人の人々を養う。主にあっては、数量は問題ではない。
「私の人生は私のものだ」と、私が自分のものである時、それは5つのパンと2匹の魚のままである。今、私は誰のものになっているか。
 使徒パウロ「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです」と述べている(コリントの信徒への手紙一6章20節)。つまり、〈私〉はイエス・キリストの十字架の血潮で買い取られた。だから〈私〉は主なる神のものである。だから、主なる神が責任を持って下さる。
 問題を抱えて悩むのは、その問題が自分のものだからである。他人の問題であれば、それほど悩まない。その問題はその人のものだからである。所有者が問題の当事者である。
〈私〉が主なる神のものであれば、それは良いことも悪いことも主なる神のものであり、主なる神が当事者である。行く手を塞ぐ困難も、それは主なる神の問題であるから、主なる神が対処して下さる。
〈私〉は主イエス・キリストのものである。私の家庭も主のものである。私の財産も職場も主のものである。私は所有しているのではなく、管理を委ねられているに過ぎない。全ては主の御手にある。イエス・キリストはご自分の御手にあるものを祝福して、人々を活かすために分け与え、用いられる。それでも自分の所有を主張するだろうか。
 同じ出来事をマタイはこう伝えている。「ここにはパン五つと魚二匹しかありません」と弟子達が言うと、イエス・キリストは言われた。「それをここに持ってきなさい」と(マタイによる福音書14章17~18節)。
「それをここに持ってきなさい」と主は言われる。問題を抱えて悩んでいるだろうか。では、「それをここに持ってきなさい」と主は言われる。余り持っていない自分に失望しているだろうか。では、「あなた自身をここに持ってきなさい」と主は言われる。