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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

主日礼拝宣教 2022年11月20日

主日礼拝宣教 2022年11月20日
マルコによる福音書6章30~44節(新共同訳 新約pp.72-73)
「命の糧に養われて」

 僅か「五つのパンと二匹の魚」で(41節)、男だけで「五千人」もいた人々が養われ、「すべての人が食べて満腹した」(41~42節)。この不思議な出来事は、マルコをはじめ、四つの福音書全てに記されている唯一の奇蹟である。最初の教会にとって、忘れ難い大切な救いの出来事として、心に深く刻まれたのだろう。また、イエス・キリストが、「天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡して」いかれる様子は(41節)、最後の晩餐を思い起こさせる。聖餐式の原型となる最後の晩餐の出来事とも重なり合いながら、そこから更に広がる教会の交わりを指し示していると言えるかも知れない。ここでは、イエス・キリストが弟子達に与えられただけではなく、弟子達を通して更に多くの人達に恵みが「分配され」ている(41節)

1. 弟子達を人里離れた所へ行かせるイエス・キリスト

 マルコは、この出来事に先立って、イエス・キリストによって遣わされた十二人の弟子達が伝道の旅から帰って来たことを伝えている。彼らはイエス・キリスト「自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」(30節)。彼らは「汚れた霊に対する権能を授け」られていた(7節)。イエス・キリストの御名によって命じると、悪霊も逃げ出していく。彼らは興奮したかも知れない。或いは逆に、いくら教えを説いても受け入れてもらえず、沈んだ気持ちで帰って来た弟子もいたかも知れない。大きな手応えを感じた者もいれば、自分の無力さに打ちのめされた者もいる。遣わされた者が経験することは、いつでもその両面を含んでいる。勿論、私達も、主の弟子として、主に遣わされた者として、同じような経験をする。御言葉が、私達の家族や身近にいる者の慰めとなった時の喜びはどれほどだろうか。しかし、自分が教会へ行くことが、家族や親しい友人に理解されない時の寂しさと辛さも味わう。私達は、様々な経験をしながら、イエス・キリストのもとに帰って来る。そして、全てを主にご報告する。一週間の遣わされた場所での営みを経て、私達はまた、主のもとに集められる。
 誇らしい思いや打ちのめされた思い、悲喜こもごも抱えて、主の弟子達は帰って来た。弟子達の報告を聞いて、イエス・キリストがまず弟子達に命じられたのは、休むことであった。主は言われた。

「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」(31節)。

 マルコは「出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである」という説明を加えている(31節)。イエス・キリストは、弟子達の疲れを気遣っておられる。とはいえ、単に体を休めたらよいわけではない。ここで「人里離れた所」と訳されているのは、「荒れ野」を意味する言葉である。それは、旧約聖書以来、特別な意味を担ってきた場所である。主なる神と出会う場所であり、主なる神の啓示を受ける場所である。イエス・キリストご自身も、しばしば、人里離れた場所や高い山に登り、ひとりで祈られた。イエス・キリストは今、弟子達に対し、そういう意味での〈真の休息〉を与えようとしておられた。「人里離れた所」で、主なる神と向かい合う祈りの時を持つように、主なる神の前で魂の休みを得るようにと促されたのである。そこで一同は、群衆を避け、「舟に乗って、自分たちだけで」荒れ野へと向かった。

2. 群衆を深く憐れまれるイエス・キリスト

 ところが、人々は弟子達の行動を見逃さなかった。舟で「出かけて行く」弟子達を、陸づたいに先回りして待ち受けたのである。主なる神と向かい合う静かな祈りの休息は、群衆の熱心な求めによって妨げられた。しかし、イエス・キリストは、そのような群衆をお叱りになるのではなく、逆に彼らを「深く憐れ」まれた。

「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」(34節)。

 だが、その結果、弟子達は、折角の休息を妨げられ、お腹を空かせたまま、群衆に「教え始められた」イエス・キリストに付き合わなければならなくなった。私達のささやかな計画も、しばしば周りの人に妨げられる。一日の仕事を終えて疲れ、いざ休もうとした時、突然電話がかかってくる。私達が日常的に経験することである。そのようなことを考えると、この後の弟子達の様子に親近感を覚える。弟子達の苛々した姿が見えるようである。そこには次のように記されている。

「そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。『ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう』」(35~36節)。

 自分達の食事をすることさえままならないのに、大勢の人達の面倒まで見られない。それが弟子達の判断だった。まことに尤もな、そして冷静な判断である。しかし、そのような常識的な判断に挑むかのように、主は弟子達にお命じになった。

「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(37節)。

3. 群衆を養われるイエス・キリスト

 驚くべき言葉である。そのようなことを急に言われても、途方に暮れるばかりである。弟子達は「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と答えた(37節)。
 呆れ果て、明らかに不服そうな弟子達の顔が目に浮かぶ。しかし、イエス・キリストは、弟子達の様子にはお構いなしに、「パンは幾つあるのか。見て来なさい」と命じられた(38節)。集まった群衆の手もとにあるパンの数を確認させるためである。弟子達は確かめて来て「五つあります。それに魚が二匹です」と答えた(38節)。
 この後の出来事については、説明や感想を差し挟む余地もないほどに、事実だけが淡々と記されている。

「そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった」(39~44節)。

 淡々とした記述の中に、イエス・キリストの振る舞いが、くっきりと浮かび上がってくる。
 イエス・キリストの手もとにあるのは、僅か「五つのパンと二匹の魚」であった。しかし、イエス・キリストは、それを弟子達に手渡す前に、「天を仰いで賛美の祈りを唱え」られた(41節)。ここに、満ち溢れるほどの豊かな食事の秘密がある。地上のことに心を占領され、すぐにお金の計算をするのが私達である。「二百デナリオンものパンを一体どこから、どうやって」と考えてしまう。男だけで「五千人」いたとすれば、女性や子供も含めたら、優に一万人を越える群衆がそこにいる。お金の計算を始めれば、肩をすくめるしかない。自分の手の内を数え、自分の持っているもの、自分の能力に頼るならば、すぐに限界が見えてくる。しかし、間違えてはならない。確かに、イエス・キリストは、弟子達に「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と言われた(37節)。しかし、それは〈あなたがたの力で〉ということではない。寧ろ〈あなたがたの手を通して〉ということである。イエス・キリストは、「天を仰いで賛美の祈りを唱え」ることから始められた。イエス・キリストにおいて、天の祝福が開けている。主の弟子として遣わされた者は、この天からの祝福と共に送り出される。私達が何かをするのではない。主ご自身が、私達を通して、私達を用いて、ご自身の民を豊かに養って下さる。そこにこそ、遣わされた者の光栄がある。

4. ご自分の弟子を養われるイエス・キリスト

 主の弟子は、ただ主によって選ばれ、召し出され、主のものとされ、主の御業のために用いられる。自分を主語にして語り始める誘惑から解き放たれる時、主のものとして用いられる本当の喜びを味わうことが出来る。主ご自身が主語となって語って下さる救いの出来事の中に招き入れられ、私達も、主の御業のため、御心のままに用いていただくのである。だからこそ、真の安息は、遣わして下さった方のもとに立ち帰り、この御方のもとに留まることの中で与えられる。勿論「人里離れた所」で、主なる神の御前にひとりで立つ経験は大事である。しかし、主のもとに集められた交わりの中で、天からの祝福を分かち合うことも欠かせない。一つの恵みに共に与ることを通して、私達は互いに豊かに養われる。主によって養われ、主のものとして導かれ、主の御前に整えられた民として、主の御業のために用いられるのである。「飼い主のいない羊のような有様」「大勢の群衆を見て」、主は「深く憐れ」まれた。どこを目指して歩んでよいか分からず、何のために生きるのかも分からなくなった人間は、自分の身勝手な思いに引きずられ、罪の迷いの中に捕らわれてしまっている。しかし、イエス・キリストは、ご自身の命を捨てて羊を救い出し、この群れの真の飼い主となって下さった。更に、羊の群れの世話をする者を任命し、ご自身の民である教会を整えさせ、更に広く福音を宣べ伝えるためにお遣わしになる。
 不思議なパンの奇蹟を通して、最も深く教えられ、養われたのは、主の弟子達だったのではないか。「すべての人が食べて満腹した」後、「パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠いっぱいになった」と記されている(42~43節)。何故籠は十二あったのだろうか。十二人の弟子達が、一つずつ籠を持って集めたからである。食事をする暇さえなくて苛々していた弟子達は、五千人以上の群衆と一緒に満腹し、更に、めいめいの「籠がいっぱいにな」るほどに満たされたのである(43節)。勿論、これで救いが完成されたわけではない。やがて飼い主が取り去られる時が来る。その時、弟子達は深い挫折を味わうことになる。しかし、主は、ご自身の死によって罪を完全に贖い、死の力を打ち破って復活された。そして、代々にわたって世界の果てまで、ご自身の群れを養い導いて下さる。確かに、荒れ野で主に養われた群衆は、そのままで教会になるわけではない。この食事は最後の晩餐とそのまま重なり合うわけではない。しかし、この群れの只中に、主ご自身が共におられることによって、終わりの日、御国において開かれる大いなる祝宴を先取りするように、主に養われる喜びが満ち溢れている。やがて、イエス・キリストの十字架と復活を経て、更に聖霊の降臨を経験することによって、主の民、教会が召し出された。その時、この荒れ野の経験が想い起こされ、大切に伝えられた。主が共におられ、主によって養われる驚くべき恵みの証しとして、この経験は全ての福音書の中に大切に記録された。
 私達も主の御前に集められている。そして、荒れ野のようなこの世界の只中で、主が備えて下さった命の糧に共に与る。民族や言葉の違いを超えて、世界中の教会で命の糧である主の御言葉を受け、共に養われている。ここにも聖霊降臨の恵みの証しが現れている。そして終わりの日の祝宴の先取りが備えられている。