ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

バプテスマ準備クラス 2022年3月13日

バプテスマ準備クラス 2022年3月13日
礼典(1)

「教会がまもる礼典は主イエス・キリストが定められたバプテスマと主の晩餐の二つであります。
 バプテスマは浸礼で行い、私たちを主イエス・キリストの死と、復活の事実にあずからせ、罪に死んで新しい生命に生きることを象徴するものであります。
 主の晩餐はパンとぶどう液で行い、感謝のうちに主イエス・キリストの贖罪の死を記念し、聖霊を通して主の体と血にあずかり、兄弟姉妹との交わりを固くし、再臨の主を待望するものであります

「主の晩餐」は、主イエス・キリストが十字架にかけられる前の晩の食卓に由来する。イエス・キリストは弟子達に、ご自身の「贖罪の死を記念し」て、主の晩餐を祝うことを命じられた。「パン」は、十字架の上で裂かれたイエス・キリストの体、「ぶどう液」は、イエス・キリストの流された契約の血を表している(マタイによる福音書26章26~30節、マルコによる福音書14章22~26節、ルカによる福音書22章15~20節)。
 私達はパンとぶどう液に与る時、聖霊を通して主の体と血にあずか」る。そして、イエス・キリストの最後の食卓を想い起こす中で、私達の罪の深さを覚えると共に、感謝のうちに主なる神の恵みの大きさを味わう。主の晩餐は私達に与えられた大きな恵みである。主の晩餐に与ることによって、私達は主なる神のご臨在を知ることが出来る。
 また、主の晩餐は、「再臨の主を待望するもの」であり、神の国の祝宴の先取りでもある。将来イエス・キリストが再び来られた時、私達はいつも主イエス・キリストと一緒に食卓に着くことが出来る。

「見よ、わたしは戸口に立って、たたいている。だれかわたしの声を聞いて戸を開ける者があれば、わたしは中に入ってその者と共に食事をし、彼もまた、わたしと共に食事をするであろう」(ヨハネの黙示録3章20節)。

 神の国における喜びの食卓を、主の晩餐は先取りしている。私達は、今パンを食べ、ぶどう液を飲みながら、早くその日が来るようにと待ち望む思いを新たにされる。
 更に、主の晩餐は、それ自体が主イエス・キリストの死によってもたらされた恵みを告げ知らせる伝道の業である。

「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(コリントの信徒への手紙一11章26節)。

 その担い手は、信仰を言い表し、主なる神の招きに応答した者の共同体――教会である。そこで教会のありようが問われてくる。
「ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります」(同27節)という御言葉を聞くと、自分に与る資格があるのかと不安に思うかも知れない。そのように真剣に自己吟味をするのは正しいことである。
 しかし、主の晩餐が提供する主の恵みが見えなくなってしまったら本末転倒である。そこで何よりもまず求められるのは、主の救いについて確信を持つこと、それに支えられて真実に罪を悔い改めることである。
 最後に、主の晩餐は〈私〉と主なる神の交わりに留まらない。共に食卓に招かれている〈兄弟姉妹〉を覚える時でもある。共に一つの食卓に招かれ、一つのパン、一つの杯をいただくことによって、私達は一つの主、イエス・キリストを頭とする一つの群れであることを覚える。キリスト者はこの世に孤独に生きているのではない。「兄弟姉妹との交わりを固くし」、この交わりを広げるために、世に遣わされていく。
 主の晩餐は教会の交わりの基本である。教会の誕生から今日まで、キリストの体として生きる者がいつも祝ってきたことである。共同体の行為として私達はパンを裂き、ぶどう液を分ける。それ故、教会の兄弟姉妹と共に主の食卓に与るということをどうか大切にしていただきたい。