聖書日課 エゼキエル書13章(新共同訳 旧約pp.1311-1313)
本章には偽りの「預言者」への裁きの宣告が記されている。偽りの「預言者」とは、「自分の心のままに預言する者たち」であり、主から聞いてもいないことを、人々に「主は言われる」と言って語る者のことである(6節)。
「主の言葉がわたしに臨んだ。『人の子よ、イスラエルの預言者たちに向かって、預言しなさい。自分の心のままに預言する者たちに向かって預言し、言いなさい。主の言葉を聞け。主なる神はこう言われる。災いだ、何も示されることなく、自分の霊の赴くままに歩む愚かな預言者たちは』」(1~3節)。
しかし、そうは言っても、実際にその「預言者」が本物か偽りかを見分けることは、容易ではなかったに違いない。何しろ、彼らは、バビロンによる滅亡が間近に迫っているにもかかわらず、「平和だ」「安全だ」と、耳あたりの良いことを語って人々を騙していた(10節)。一方、エゼキエルやエレミヤに代表される真の「預言者」は、バビロンによる滅亡を語り、人々の罪を指摘し、悔い改めを説き続けた。
不安な時代において、安全を語る言葉に心を向けるのは尤もなことでしょう。また、罪を示され、悔い改めを求められるよりも、無条件の主なる神の守りを説く言葉に耳を傾けたくなるのもよく分かる。
しかし、私達は、罪の悔い改めと信仰なくして、主なる神に立ち帰ることは出来ない。そして、主なる神に立ち帰ることなくして私達に真の「平和」はない。
私達は生きている中で様々な罪を犯す。それ故、私達は日々主の御前に出て行かなければならない。祈りの中で主と向き合い、罪を悔い改めて赦しをいただくことが必要である。
偽りの「預言者」は、私達を一時的に安心させることはあっても、悔い改めて主なる神に立ち帰らせることはない。それ故、そこに真の「平和」と平安が湧き上がることはない。一方、真の「預言者」は、私達を主なる神と向き合わせる。罪を悟らせ、悔い改めて真の赦しと「平和」を得させる。
「わたしは神が宣言なさるのを聞きます。主は平和を宣言されます/御自分の民に、主の慈しみに生きる人々に/彼らが愚かなふるまいに戻らないように」(詩編85編9節)。
西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00
〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
メールアドレス