聖書日課 箴言9章(新共同訳 旧約pp.1002-1003)
本章は、箴言の前半部の最後の章で、これまでのまとめのような内容になっている。ここでも「知恵」が擬人化されて、人々に向かって「呼びかけ」ている。
「知恵は家を建て、七本の柱を刻んで立てた。獣を屠り、酒を調合し、食卓を整え/はしためを町の高い所に遣わして/呼びかけさせた。『浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい。』意志の弱い者にはこう言った。『わたしのパンを食べ/わたしが調合した酒を飲むがよい/浅はかさを捨て、命を得るために/分別の道を進むために』」(1~6節)。
興味深いのは、13節以降で、「愚かさという女」もまた人々に呼びかけていることである。しかも、この「知恵」と「愚かさという女」は、どちらも同じように「浅はかな者はだれでも立ち寄るがよい」と呼びかけている(4節、16節)。
しかし、その呼びかけの内容は全く違う。「知恵」は勧める。
「わたしのパンを食べ/わたしが調合した酒を飲むがよい/浅はかさを捨て、命を得るために/分別の道を進むために」。
ところが、「愚かさという女」はこう勧めている。
「盗んだ水は甘く/隠れて食べるパンはうまいものだ」(17節)。
「知恵」は「浅はかさを捨て」よと言い、「愚かさ」は「盗め、隠れよ」と言う。「知恵」は、私達に「命」と「分別」を与えるために呼びかけ、「愚かさ」は、招いた者を「陰府に」陥れるために呼びかけている。「知恵」は与え、「愚かさ」は奪う。
「そこに死霊がいることを知る者はない。彼女に招かれた者は深い陰府に落ちる」(18節)。
「知恵」の声に従うか、「愚かさという女」の声に従うか。その選択は、私達自身に任せられている。
「主を畏れることは知恵の初め/聖なる方を知ることは分別の初め。わたしによって、あなたの命の日々も/その年月も増す。あなたに知恵があるなら、それはあなたのもの。不遜であるなら、その咎は独りで負うのだ」(10~12節)。
祈り
愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたのはかり知ることの出来ない慈しみの中に私達を招き、御前に引き寄せて下さったことを、心から感謝致します。
主よ、知恵のない者、弁えのない者とは、この私です。あなたが握って下さっていなければ、脇道に逸れ、罪の深みに陥ってしまうこのような私をあなたは胸の中に抱き抱え、命を注いで下さいました。
主よ、あなたが握って下さっているから、私はあなたがおられる道を歩くことが出来ます。命の道を歩くことが出来ます。
主よ、どうか、私自身もあなたから離れず、あなたと共に歩み続けることが出来ますよう、力づけ、導いて下さい。
今日もあなたの子供達と共にあり、今日一日の道を守り、支えて下さい。お一人お一人が招いて下さるあなたとの深い交わりの中に、命を回復することが出来ますよう、あなたと共に歩むことが出来ますよう、助けて下さい。
感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
西原新生バプテスト教会
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