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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 ヨブ記4章

聖書日課 ヨブ記4章(新共同訳 旧約pp.778-779)

「テマン人エリファズ」は(1節)、ヨブがこれまで「多くの人を諭し」、助け、励ましてきた功績を認めた(3~4節)。しかし、今そのヨブは、自ら苦しみを受け、嘆き、怯え、死にたいと口にするほど弱り果てていた。

 ヨブの苦しみを目の当たりにしたエリファズは、かける言葉も見つからないまま一週間、ヨブの苦しみを共に苦しんだ(2章12~13節)。だが、沈黙を破ったヨブの口から、深い嘆きの言葉が出るのを聞くと、エリファズは、我慢出来ずに自分の考えをヨブに述べた。

 結論から言うと、エリファズは、ヨブに自分の犯した罪を悔い改めて、主なる神に赦しを請うように勧めた。その背景には、いわゆる因果応報の考え方があった。

「考えてみなさい。罪のない人が滅ぼされ/正しい人が絶たれたことがあるかどうか。わたしの見てきたところでは/災いを耕し、労苦を蒔く者が/災いと労苦を収穫することになっている。彼らは神の息によって滅び/怒りの息吹によって消えうせる。獅子がほえ、うなっても/その子らの牙は折られてしまう。雄が獲物がなくて滅びれば/雌の子らはちりぢりにされる」(7~11節)。

 つまり、ヨブの苦難は、ヨブ自身が播いた種の報いであり、悔い改めて主なる神に立ち帰れば赦しと祝福を受けるに違いないというのである。

 勿論、これはヨブのことを思っての善意の勧めである。しかし、善意であれば問題ないというわけでもない。事実、既に見たように、ヨブの苦難は彼の罪に対する裁きではなかった。つまり、エリファズの考えは間違っていた。それ故、善意からの言葉であっても、それは却ってヨブを傷つけ苦しめることになってしまった。

 こうした記述を読むと、人間関係は本当に難しいと感じる。人間の認識にはどうしても限界がある。だから、私達は言葉を発する前に、主なる神の御前に出て、心に平安が与えられるまで祈ることが大切である。その時、主なる神は、正しい理解と相応しい言葉をお与え下さる。そして、平和で麗しい交わりを築かせて下さる。

「また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい」(コロサイの信徒への手紙3章15節)。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
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