聖書日課 ヨブ記12章(新共同訳 旧約pp.789-791)
3人目の友人ツォファルが話し終えたところで、ヨブは3人の友人達に向かって答えた。
「ヨブは答えた。確かにあなたたちもひとかどの民。だが、死ねばあなたたちの知恵も死ぬ。あなたたち同様、わたしにも心があり/あなたたちに劣ってはいない。だれにもそのくらいの力はある。神に呼びかけて/答えていただいたこともある者が/友人たちの物笑いの種になるのか。神に従う無垢な人間が/物笑いの種になるのか。人の不幸を笑い、よろめく足を嘲ってよいと/安穏に暮らす者は思い込んでいるのだ」(1~5節)。
「あなたたち」は皆「ひとかどの」人間だが、あくまでも死ぬべき人間であり、死と共にその「知恵も死ぬ」。自分もあなたたちと同じくらいの知恵と力は持ち合わせており、「だれにもそのくらいの力はある」。ヨブはそのように言って、自分が特別な知恵者であるかのように語る彼らの高慢を指摘した。
更に、ヨブは、主なる神と語らい、「神に従う無垢な人間」の自分が、苦難を受けることで「物笑いの種」にされてよいのかと問いかける。「安泰に暮らす者」が、苦しみの中にある者を教え諭すということの中に、密かな高ぶりと蔑みの心があることを指摘し、反論したのである。実に鋭い指摘である。
しかし、彼らは決してヨブを笑い者になどしてはいなかった。彼らは、ヨブの苦難を知ってはるばる遠方から駆けつけ、彼の苦しみを見て共に苦しんでくれた友人である。問題は、彼らの理解に限界があったことにある。しかも、彼ら自身は、その限界を認めておらず、気付いてすらいなかった。
自分の弱さや限界に目を留め、それを誤魔化したり、隠したりすることなく、受けとめつつ反省し、学びつつ成長する。そのような姿勢を身に着けたいものである。それはイエス・キリストの弟子に相応しいあり方である。何故なら、聖書における〈弟子〉という言葉には、〈学ぶ者〉という意味があるからである。主イエス・キリストから学び続ける者、それがイエス・キリストの弟子であり、キリスト者である。
「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイによる福音書11章29節)。
西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00
〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
メールアドレス