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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えます。

主日礼拝宣教 2021年10月24日

主日礼拝宣教 2021年10月24日
マタイによる福音書9章9~13節(新共同訳 新約p.15)
「弟子となる道」

 イエス・キリストが弟子として召されたのは、社会的に尊敬されていた人ばかりではなかった。人々から嫌われ、軽蔑されていた人も、イエス・キリストの周りに多く集まっていた。今日私達が受けた御言葉に登場するマタイもその一人だった。

1. 徴税人マタイへの呼びかけ

「イエスはそこをたち、通りがかりに、マタイという人が収税所に座っているのを見かけて、『わたしに従いなさい』と言われた」(9節)。

 マタイはガリラヤのカファルナウムという町の「収税所」の徴税人だった。カファルナウムは当時領地と領地の境の町であった。だから、この収税所は、税関のような役割も果たしていた。徴税人には、ここを通過する人々の荷物の中に、税金を払わなければならない物がないかどうか、監視する役目もあった。
 徴税人というと、ルカによる福音書19章に出てくるザアカイがよく知られている。彼はエリコという町の「徴税人の頭で、金持ちであった」。徴税人が金持ちになれたのは、不正な手段で税金を取り立てたからである。徴税人は、不正に物を持ち込んだ人を見つけて脅迫し、袖の下を取って私腹を肥やしていた。そのため、人々は彼らに見咎められないよう、収税所の前をすばやく通り過ぎた。私達も、特別に怪しまれる物を持っていなくても、持ち物の検査を受ける時、決して良い気持ちにはならない。何も言わずに通してもらいたいと思う。商売で長旅をして、物を運んでいたユダヤ人にとっては尚更だろう。彼らにとって、収税所はどうしても通らなければならない場所だった。万一そこで難癖をつけられたら、とても厄介なことになると分かっていた。だから、何とかして、目をつけられずにやり過ごしたいと、祈るような気持ちで通る人もいた筈である。
 マタイは、通行人に、特に同胞であるユダヤ人に、自分がどのように見られているか、当然分かっていた。「やあ、マタイさん。お元気ですか。お仕事お疲れ様」と親しく声をかけてくれる人などは、誰もいなかった筈である。そこを通りさえすれば、もう用のない人間だった。
 だから、この時、通りかかった一行の中から、指導者と思しき人間が近づいてきて、「わたしに従いなさい」と声をかけられた時、彼はどんなに驚いたことだろう。

2. 立ち上がったマタイ

 私達は、イエス・キリストと出会い、「わたしに従いなさい」と言われた時、どういう反応をするだろうか。「この人は一体どういう人なのだろう」と驚きと恐れを抱き、すぐに付いて行くことは出来ないかも知れない。或いは、イエス・キリストに「とんでもない。私のような者があなたの弟子になるなんて無理です」と断るかも知れない。
 では、マタイはどうだっただろうか。マタイが徴税人であることを知っている周囲の人は、当然彼は断るだろうと思ったに違いない。しかし、聖書は次のように記している。

「彼は立ち上がってイエスに従った。イエスがその家で食事をしておられたときのことである。徴税人や罪人も大勢やってきて、イエスや弟子たちと同席していた」(9~10節)。

 マタイは躊躇うことなく立ち上がり、イエス・キリストの後に従った。彼がどのようにイエス・キリストを理解し、その呼びかけに応えたのか、何の説明もない。そして、次に書かれているのは、彼の家でイエス・キリストが弟子達と共に食事をされたということである。また、そこには仲間の徴税人や、罪人と言われる人達も来ていた。この間の経緯については、私達は想像するしかない。ただ、その全てを説明する一つの言葉がある。
「彼は立ち上がっ」たのである。私は、この言葉に驚き、感動する。何故なら、マタイは、もう立ち上がりたくない。立ち上がっても仕方がないと、自分の人生に半ば匙を投げていた人だったからである。彼も、若い時には、何度かこのような生活から足を洗おうとしたに違いない。人々からいつも軽蔑と嫌悪の目で見られて生きることが楽しい筈がない。しかし、結局、彼は徴税人として生きるしかなかった。自分でも嫌で仕方のない生活を続けなくてはならなかった。
 マタイはイエス・キリストと出会い、「わたしに従いなさい」と呼びかけられた時、直ちに「立ち上がって」、従った。どうして彼は立ち上がることが出来たのだろうか。彼がイエス・キリストだけを見た、イエス・キリストの御声だけを聞いたからではないか。
 マタイは、律法学者やファリサイ派の人々のように、聖書に通じていたわけでも、専門的な訓練を受けたわけでもなかった。それどころか、生きている間に、他の人のために何かをして、人から感謝されるなどということは、夢にも考えられない人だった。しかし、だからこそ、彼は、イエス・キリストの御言葉を信じ、イエス・キリストに付いて行くこと以外には考えなかったのだろう。もし彼が少しでも自分に目を向け、これまで自分がしてきたこと、自分の現在の状況や可能性などを考えていたら、とても立ち上がれなかったに違いない。イエス・キリストの御声に応答出来なかったに違いない。
 イエス・キリストに従うことは、とても厳しく苦しい道であると言われることがある。実際、キリスト者になったら、あれをしなくてはならない、これをしてはならないということを考えて、なかなかバプテスマを受けられない人が多くいる。いや、キリスト者になっても、今の自分で本当に良いのかと悩み苦しんでいる方は少なくない。
 マタイは、そのように思い悩む私達に、イエス・キリストに従って生きるとは、本当は願っていないことを苦しそうな顔をして行うことではなく、ひたすらイエス・キリストを信頼し、その後に付いて行くことであると教えている。
 とはいえ、マタイは、これまで自分という人間のどうしようもなさにしか心を向けられず、そこから自由になれなかった人である。その彼が、どうして自分のことを忘れたかのように、イエス・キリストに付いて行くことが出来たのだろうか。イエス・キリストの方がマタイに声をかけ、招かれたからである。マタイはその御声を聞いた時、それに従わざるを得なかった。

3. 主に従うことこそマタイの喜び

 マタイは、すぐにイエス・キリストと弟子達を自分の家に招き、食事を共にしている。イエス・キリストが彼の全てを知りながら、自分の弟子にしようと言って下さったことが本当に嬉しかったのだろう。だから、直ちにイエス・キリストと弟子達を自分の家に迎えた。
 そして、マタイはイエス・キリストに従うために、すぐに徴税人を辞めたわけではなかった。彼は、これまで徴税人であるということで、自分のことを屑みたいな人間だと卑下してきた。徴税人の仕事も辞めたくて辞めたくて仕方なかっただろう。しかし、今は違う。周りの人が自分とその職業をどう思おうが、そのことが彼を苦しめたり、空しくさせることは最早なかった。何故なら、マタイは今イエス・キリストの弟子だからである。やがてマタイは伝道者としての道を歩むことになる。しかし、それまでは自分の置かれた場で、イエス・キリストの弟子として喜んで生きるようになった。
 マタイは、イエス・キリストがおられる所に、自分と同じように人々から軽蔑されていた徴税人の仲間を招いている。また、罪人と呼ばれていた人々も、イエス・キリストとの食事に招いて、もてなしている。何故だろうか。彼は本当に嬉しかったからである。嬉しくて、嬉しくてたまらなかったからである。だから、他の仲間にもその喜びを知ってもらいたかった。マタイは、彼らの仲間であることを、最早少しも恥じてはいない。これまで仕方なしに付き合っていた人を自分の家に迎え、イエス・キリストを紹介したのである。
 一方、マタイ達と一緒に食事をするイエス・キリストを、白い目で見る人達がいた。ファリサイ派の人々である。彼らは、自分達こそ清い生活をしていると誇っていた。そして、徴税人や罪人のことを、一緒にいるだけで穢れると軽蔑していた。そのため、ファリサイ派の人々は、マタイ達と一緒に食事をしていたイエス・キリストを非難している。

ファリサイ派の人々はこれを見て、弟子たちに、『なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか』と言った」(11節)。

 それに対し、イエス・キリストは次のように答えられた。

「イエスはこれを聞いて言われた。『医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。『わたしが求めるのは、憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである』」(12~13節)。

 勿論、イエス・キリストの弟子となる人が皆訳ありで、難しい問題を抱えているわけではない。しかし、その人自身は、自分のことを医者の要らない「丈夫な人」「正しい人」であるとは決して思っていないだろう。自分のことを「病人」「罪人」であると考え、主なる神の恵みと憐れみを求め続けた筈である。
 その後、マタイは、イエス・キリストの弟子として、自分の弱さ、不甲斐なさを痛感することが何度もあっただろう。失敗や間違いを犯すこともあっただろう。しかし、彼はイエス・キリストから離れることはなかった。いや、マタイを招いたイエス・キリストが、彼を離すことはなかった。それ故、マタイは、自分の弱さと罪を知れば知るほど、ますますイエス・キリストを慕い求め、主なる神の恵みを真剣に求めたことだろう。自分のどうしようもなさを思い知らされれば思い知らされるほど、主なる神が自分のような者を探し求め、見出し、罪と滅びの中からイエス・キリストによって救い出して下さったということを想い起こしただろう。マタイはその喜びに突き動かされて生き続けた。
 私達も恐れることなく、イエス・キリストの弟子として立ち上がろう。主の愛を求め、その愛を、家族や隣人と喜んで分かち合おう。マタイは、彼でなければなし得ない証しを、自分の置かれている場で自分の仲間に対して行った。周囲の人が何と言おうが、彼の喜びを止めることは出来なかった。私達もそういう弟子となりたい。

祈り
 愛する天のお父様、あなたの尊い御名をほめたたえます。今日も御前に引き出して下さったことを感謝致します。主よ、あなたは私達を、罪と滅びの中から、御子イエス・キリストの十字架によって救い出して下さいました。私達も、今あなたの光を求めておられる方のところに行って、あなたこそ真の主であり、救い主であることを、喜びをもって伝えることが出来ますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。