ヨブは、主なる神の正しさと主なる神の権威を認めていた。人が主なる神の正しさの前に立ち得ないことも知っていた。
「ヨブは答えた。それは確かにわたしも知っている。神より正しいと主張できる人間があろうか。神と論争することを望んだとしても/千に一つの答えも得られないだろう。御心は知恵に満ち、力に秀でておられる。神に対して頑になりながら/なお、無傷でいられようか」(1~4節)。
しかし、それ故に却ってヨブは苦しんでいた。正しい御方が理由もなく自分を苦しめていることに、二重の苦しみを味わっていた。
ヨブは主なる神に疑いの思いをぶつけた。
「しかし、わたしが呼びかけても返事はなさるまい。わたしの声に耳を傾けてくださるとは思えない。神は髪の毛一筋ほどのことでわたしを傷つけ/理由もなくわたしに傷を加えられる。息つく暇も与えず、苦しみに苦しみを加えられる」(16~18節)。
この言葉は、決して信仰に溢れた言葉ではない。しかし、全くの不信仰かと言えば、そうでもない。ヨブは〈主なる神に向かって〉叫んだ。主なる神に本音をぶつけて訴えた。それは信仰者故の苦しみであり、主なる神を信じるが故の叫びであった。信仰の人生には、このような形でしか主なる神に向かうことの出来ない時がある。
そして、この苦しみの中で、ヨブは一つの大切な気付きを得た。
「このように、人間ともいえないような者だが/わたしはなお、あの方に言い返したい。あの方と共に裁きの座に出ることができるなら、あの方とわたしの間を調停してくれる者/仲裁する者がいるなら、わたしの上からあの方の杖を/取り払ってくれるものがあるなら/その時には、あの方の怒りに脅かされることなく、恐れることなくわたしは宣言するだろう/わたしは正当に扱われていない、と」(32~35節)。
ヨブは、激しい苦しみと葛藤の中で、自分と主なる神の「間を調停してくれる者/仲裁する者」の必要性に気付いた。それこそイエス・キリストであり、十字架によって主なる神と人を結ぶ道を開いた御方である。勿論ヨブの理解は不十分なものであった。それでもこの気付きは素晴らしいものである。何故なら、それは主なる神の御計画そのものだから。
「わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです」(ヨハネの手紙一2章1~2節)。
西原新生バプテスト教会
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