聖書日課 歴代誌下12章(新共同訳 旧約pp.685-686)
南ユダの「レハブアム王の治世第五年」に、「エジプトの王シシャク」が大軍を率いて「エルサレムに攻め上って来た」(2節)。ユダは苦戦を強いられ、次々と前線は破られていった(4節)。
その時、主なる神は預言者シェマヤを通して語られた。
「主はこう言われる。『あなたたちはわたしを捨てた。わたしもあなたたちを捨て、シシャクの手に渡す」(5節)。
主なる神によれば、レハブアムは主を「捨てた」というのである。どのようにして主を「捨てた」のだろうか。歴代誌には次のように記されている。
「レハブアムは国が固まり、自らも力をつけると、すべてのイスラエル人と共に主の律法を捨てた」(1節)。
「主の律法」とは主なる神の御言葉である。主なる神を捨てるとは、主なる神の御言葉を捨てることを意味する。
主なる神の御言葉を捨てることは人として致命的である。アダムはエデンの園において、「園のすべての木から取って食べなさい。ただし、善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう」という主なる神の御言葉を捨て(創世記2章16~17節)、「決して死ぬことはない。それを食べると、目が開け、神のように善悪を知るものとなることを神はご存じなのだ」という悪魔の言葉に従った(同3章5節)。
イスラエルの王サウルもそうだった。彼は、「アマレクを討ち、アマレクに属するものは一切、滅ぼし尽くせ」という主なる神の御言葉に従わず(サムエル記上15章3節)、自分が良いと思うことを主張して譲らなかった。そのサウルに対して、主は「反逆は占いの罪に/高慢は偶像崇拝に等しい。主の御言葉を退けたあなたは/王位から退けられる」と語られた(同23節)。
この罪人の流れはレハブアムに、そして、全ての人の中に流れている。
だから、イエス・キリストは、「わたしの言葉にとどまるならば、あなたたちは本当にわたしの弟子である」と言われた(ヨハネによる福音書8章31節)。
さて、レハブアム王は、この主なる神の警告を受けて悔い改めた。しかし、主なる神は、南ユダ王国を滅ぼしはされなかったものの、エジプトの属国となるように導かれた(7~8節)。
主は何故そうなさったのだろうか。
「ただし、彼らはシシャクに仕える者となり、わたしに仕えることと、地の王国に仕えることとの違いを知るようになる」(8節)。
主なる神を信じるとは、主なる神に「仕えること」である。しかし、人はそれを窮屈に感じて、主なる神の支配から逃れようとする。父親から「財産の分け前」をもらった弟息子が、「遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くし」たように(ルカによる福音書15章12~13節)。
しかし、この弟息子は自由になれたわけではなかった。寧ろ、彼は富と欲望の奴隷となり、自由を失った。弟息子は、「財産を無駄遣いして」、「食べるにも困り始め」、苦しみを味わうことになった(同13~14節)。
父親が彼に財産を分け、旅に出ることを許したのは、富と欲望を主人として生きることの虚しさを教えるためであった。
天の父に仕えることには厳しい面もある。しかし、真実に愛してくれる天の父のもとで生きることと、富と欲望に仕えることの違いを知らせるために、主はこのような荒療治もされる時もある。
主なる神はレハブアムを愛し、また南ユダ王国の人々を愛するが故に、エジプトの手に渡された。それは、彼らが罪を悔い改めて、主に立ち帰るためであった。主なる神の愛と厳しさを知ろう。
西原新生バプテスト教会
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