聖書日課 歴代誌下16章(新共同訳 旧約p.690)
「ユダの王アサ」は信仰に篤い王だったが、晩年は少し様子が違っていた。
第一に、「イスラエルの王バシャ」が「ユダに攻め上って来」た時、イスラエルの北に位置する「アラムの王ベン・ハダド」と「同盟」を結ぶことによって援軍を得、この戦いに勝利した。「アサの治世第三十六年」のことである(1~6節)。
しかし、このことは主なる神の目には愚かなことであった。かつて「クシュ人ゼラが百万の軍隊と戦車三百両を率いて」攻め上って来た時(14章8節)、アサは主なる神を信頼し、「彼の神、主を呼び求めて」勝利した(10節)。
にもかかわらず、何故今回は「アラム王を頼みとし」、主なる神を「頼みとしなかった」のか。アサはかつての素晴らしい体験を忘れてしまったのだろうか。
「主は世界中至るところを見渡され、御自分と心を一つにする者を力づけようとしておられる。この事について、あなたは愚かだった。今後、あなたには戦争が続く」(9節)。
そのように指摘した「先見者ハナニ」にアサは「怒り」、「彼を獄に投じた」(7~10節)。
使徒パウロはガラテヤ教会の人々に「“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げようとするのですか。あれほどのことを体験したのは、無駄だったのですか」と問いかけた(ガラテヤの信徒への手紙3章3~4節)。アサ王もまさに治世を「“霊”によって始めたのに、肉によって仕上げよう」としていた。
第二に、アサ王は「その治世第三十九年に足の病にかかり、その病は極めて重かった」。しかし、「彼は主を求めず、医者に頼った」(12節)。
当時の医療には呪術的な要素が色濃く見られ、「医者」は呪術をもって治療しようとした。(だから、この箇所をもって、全ての病は信仰によって癒すべきであり、医者に頼るのは不信仰だと解釈するのは極論である)。
このように、アサ王の晩年には不信仰な面が表れていた。
信仰を生涯全うするのは、至難の業である。それでも、主なる神と「心を一つにする」者を、主なる神は求めておられる。イエス・キリストと「心を一つに」して、共に働いてくれる者を探しておられる。
主なる神と「心を一つにする」。これは人には出来ない。だからこそ、ガラテヤの信徒への手紙でパウロが述べているように、「“霊”によって」歩む必要がある。
アサ王の時代と違い、私達は、イエス・キリストを信じ、聖霊を受けて歩む新約の中にある。そのことを感謝せずにはいられない。聖霊なる神に頼ろう。
西原新生バプテスト教会
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