聖書日課 歴代誌上15章(新共同訳 旧約pp.648-649)
15章には、ダビデ王が再び神の箱をエルサレムに運び入れようとした出来事が記されている。
「ダビデは祭司ツァドクとアビアタル、レビ人のウリエル、アサヤ、ヨエル、シェマヤ、エリエル、アミナダブを呼んで、言った。『レビ族の家系の長であるあなたたちは、兄弟たちと共に自らを聖別し、イスラエルの神、主の箱を、わたしが整えた場所に運び上げよ。最初のときにはあなたたちがいなかったので、わたしたちの神、主はわたしたちを打ち砕かれた。わたしたちが法に従って主を求めなかったからである。』祭司とレビ人は、イスラエルの神、主の箱を運び上げるため自らを聖別した。主の言葉に従ってモーセが命じたように、レビ人たちが竿を肩に当てて神の箱を担いだ」(11~15節)。
それは1回目の失敗(13章)から数ヶ月が経過した後のことであった。その間、神の箱はオベド・エドムの家に一時的に預けられていた。
ダビデはこの数ヶ月の間、ずっと祈り、考え、学んでいたものと思われる。どうしてウザは、主の怒りを受けて死んでしまったのか。私達のどこに間違いがあったのかと。
人生に失敗はつきものである。だから、失敗しないよう心掛けることは大切であるが、それ以上に大切なのは、失敗から学び、反省し、再び挑戦することではないか。ダビデは、この失敗から自分の高慢と不注意を反省し、律法の教えを学び直すことで、「神の箱を担ぐのは、レビ人でなければならない」ことを見出した(2節)。
主なる神の祝福は、主なる神の教えに聞き従う者の上にこそ注がれる。どんなに盛大な讃美も、どんなに壮大な儀式も、主の教えに従っていなければ祝福とはならない。勿論、讃美や儀式など要らないということではない。讃美も礼拝も、また祈りも献金も奉仕も、全て主の御心に従ってこそ祝福となるということである。主の教えに従って執り行われる儀式には、大きな祝福と喜びが満ち溢れる。
「主の契約の箱を担ぐレビ人を神が助けてくださったので、彼らは雄牛七頭と雄羊七匹をいけにえとしてささげた。…イスラエルの人々はこぞって喜びの叫びをあげ、角笛とラッパを吹き、シンバルを鳴らし、琴と竪琴を奏でて、主の契約の箱を運び上げた」(26、28節)。
西原新生バプテスト教会
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