聖書日課 列王記下24章(新共同訳 旧約pp.621-622)
ヨシヤ王が「エジプトの王ファラオ・ネコ」によって討たれた後(23章29節)、ユダ王国には、ヨアハズ、ヨヤキム、ヨヤキン、ゼデキヤと4人の王が続いた。彼らは皆、「主の目に悪とされることをことごとく行った」が(23章32節、37節、24章9節、19節)、遂に、ヨヤキンの時代に、「バビロンの王ネブカドネツァル」が「エルサレムに攻め上って来て」、これを占領・破壊し、王をはじめとする多くの人々を「捕囚としてバビロンに連れ去」った(14~16節)。
「そのころ、バビロンの王ネブカドネツァルの部将たちがエルサレムに攻め上って来て、この都を包囲した。部将たちが都を包囲しているところに、バビロンの王ネブカドネツァルも来た。ユダの王ヨヤキンは母、家臣、高官、宦官らと共にバビロン王の前に出て行き、バビロンの王はその治世第八年に彼を捕らえた。主が告げられたとおり、バビロンの王は主の神殿の宝物と王宮の宝物をことごとく運び出し、イスラエルの王ソロモンが主の聖所のために造った金の器をことごとく切り刻んだ」(10~13節)。
これが〈バビロン捕囚〉と呼ばれる出来事である。これから70年間、神の民は、国を失い、異教の地で「捕囚として」苦しみに耐えなければならなくなってしまった。それは、彼らが自分達の神を捨てて、偶像に走り、「主の目に悪とされることをことごとく行った」ことに対する裁きであり、自分で蒔いた種を刈り取る自業自得の事態であったと言えるだろう。
だが、彼らがバビロンに降伏し、その地で生きることは、主なる神の御心でもあった。そのように言うと驚かれるかも知れない。実際、当時の人々も驚き、そのような預言をしたエレミヤを非難した(エレミヤ書参照)。
しかし、彼らは、その苦しみの中で自分達の歴史を振り返り、罪を悔い改め、再びイスラエルの主を慕い求めるようになっていった。その意味で、この苦しみは、彼らが再び神の民として回復されるために必要だった。つまり、バビロン捕囚という裁きは、神の民の回復と救いのためでもあったと言うことが出来る。
勿論、苦難は、経験しないに越したことはない。しかし、苦しみによって得られる祝福もある。苦しまなければ得ることのない恵みもある。主なる神は、苦しみも喜びも用いて、全てを益として下さる御方である。だから、目の前の出来事に一喜一憂するのではなく、主なる神が全てを益として下さることを信じて、希望を抱いて歩んでいこう。
「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマの信徒への手紙8章28節)。
西原新生バプテスト教会
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