聖書日課 列王記下7章(新共同訳 旧約pp.588-589)
イスラエルは深刻な食糧不足に陥っていた。「飢饉に見舞われ」たことに加え(4節)、アラム軍が攻め上って町を包囲していたのである。それは、イスラエルが偶像に依り頼み続けたことの結果であった。
にもかかわらず、王はエリシャに「この不幸は主によって引き起こされた。もはや主に何を期待できるのか」と言った(6章33節)。何も困っていない時には、主なる神を軽んじていながら、一度困ったことがあると、今度は主なる神のせいにする。愚かで自己中心的な人間の姿がここにある。
しかし、主なる神は、このままサマリアが滅びるままに放っておかれなかった。エリシャを通して、こう約束して下さった。
「主の言葉を聞きなさい。主はこう言われる。『明日の今ごろ、サマリアの城門で上等の小麦粉一セアが一シェケル、大麦二セアが一シェケルで売られる』」(1節)。
これは願ってもない奇跡である。しかし、元々エリシャの言葉など信じてもいない者にとっては、愚かな戯言にしか聞こえなかった。「王の介添えをしていた侍従」は、これを聞いて次のように言った。
「主が天に窓を造られたとしても、そんなことはなかろう」(2節)。
不信仰な者にとっては、主なる神の御力よりも目の前の現実の方が遥かに強烈だった。それ故、折角のチャンスも何の役にも立たない。この時、エリシャは言った。
「あなたは自分の目でそれを見る。だが、それを食べることはない」(2節)。
すると、翌日その通りのことが起こった。主なる神の介入によってアラム軍が逃げ出し、「天幕も馬もろばも」食糧も、全てを置き去りにしていった(6~7節)。それを聞いたイスラエルの人々は、「アラムの陣営」に押し寄せた。そして、例の侍従は、その時、押し寄せる人々に「踏み倒されて死んだ」。
「そこで民は出て行ってアラムの陣営で略奪をほしいままにし、主の言葉どおり上等の小麦粉一セアが一シェケル、大麦二セアが一シェケルで売られるようになった。王は自分の介添えをしていた例の侍従を城門の管理に当たらせたが、彼は城門で民に踏み倒されて死んだ。王が神の人のところに下って行ったときに、神の人が告げたとおりであった」(16~17節)。
何と愚かで悲しい出来事だろう。主なる神の奇跡を目の当たりにしていながら、それを味わうことが出来ずに死んでいくとは。折角与えられている祝福を自ら拒み、軽んじてしまう。それが不信仰と不従順というものである。主に信頼して従うことの大切さを、私達はしっかりと心に留めよう。
「祝福されよ、主に信頼する人は。主がその人のよりどころとなられる。彼は水のほとりに植えられた木。水路のほとりに根を張り/暑さが襲うのを見ることなく/その葉は青々としている。干ばつの年にも憂いがなく、実を結ぶことをやめない」(エレミヤ書17章7~8節)。
西原新生バプテスト教会
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