士師記には合わせて12人の士師が登場する。そこでは或るパターンが何度も繰り返されている。
1. イスラエルの堕落と棄教
「イスラエルの人々は主の目に悪とされることを行い、バアルに仕えるものとなった」(11節)。
2. 主なる神の裁きによる敵国の略奪
「主はイスラエルに対して怒りに燃え、彼らを略奪者の手に任せて、略奪されるがままにし、周りの敵の手に売り渡された。彼らはもはや、敵に立ち向かうことができなかった」(14節)。
3. イスラエルの民のうめきと悔い改め
4. 主なる神によって立てられた士師による救い
「主は彼らのために士師たちを立て、士師と共にいて、その士師の存命中敵の手から救ってくださったが、それは圧迫し迫害する者を前にしてうめく彼らを、主が哀れに思われたからである」(18節)。
5. 士師の死後、しばらくするとイスラエルは再び堕落し棄教する
「その士師が死ぬと、彼らはまた先祖よりいっそう堕落して、他の神々に従い、これに仕え、ひれ伏し、その悪い行いとかたくなな歩みを何一つ断たなかった」(19節)。
このパターンが何度も何度も繰り返される中、それでも主なる神は、イスラエルを決してお見捨てにはならなかった。彼らが苦しみを通して自分達の過ちに気付き、悔い改めて主なる神に立ち帰り、主なる神の祝福を回復することを願っておられた。そのために、主なる神は何度も士師を立てて下さった。
同じ間違いを繰り返してしまうことは、誰にでもある。しかし、私達は、そのような中で、自分を責めたり、或いは開き直って自己正当化してしまうことはないだろうか。
大切なことは、罪や失敗に陥って苦しむ時も、そこに主なる神が共にいて下さるのを忘れないでいることである。そして、自分の間違いに気付いたら、素直に認めて主の御前にひれ伏し、赦しをいただくことである。主なる神は、御子イエス・キリストの十字架の故に、既に赦しを与えて下さっている。だから、私達に残されている最終的な罪は何かと言えば、主なる神の赦しを受け取らないということではないか。
「『わたしはだれの死をも喜ばない。お前たちは立ち帰って、生きよ』と主なる神は言われる」(エゼキエル書18章32節)。
西原新生バプテスト教会
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