ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年に伝道開始50年を迎えます。

主日礼拝宣教 2021年8月29日

主日礼拝宣教 2021年8月29日
エゼキエル書33章10~20節(新共同訳 旧約pp.1350-1351)
「立ち帰れ、立ち帰れ」

1. 立ち帰れ、立ち帰れ

 エゼキエルは、バビロンに連行された捕囚のイスラエルの民に対し、預言者として罪の悔い改めを迫る言葉を語り続けた。そして、警告を無視する民に対し、主なる神が裁きを下し、イスラエルが滅亡することを予告した。しかし、預言の通り、エルサレムの都とその神殿が破壊され、イスラエルが滅亡すると、エゼキエルは、悔い改める者に与えられる主なる神の救い、未来におけるイスラエルの回復を民に告げた。預言の雰囲気はこれまでと大分違うが、実のところ主題は首尾一貫している。即ち〈主なる神に立ち帰る〉ということである。
 捕囚の民は、祖国の滅亡の知らせを聞くと、深い絶望に陥った。しかし、その大きな衝撃によって、彼らは、自分達がこれまで主なる神に対して罪を犯し続けてきたことの重大さに漸く気が付いた。
 捕囚の民はそれまでいずれ祖国に戻れるという希望を抱いていた。だが、エルサレムもその神殿もバビロンによって破壊された。祖国の滅亡によって希望は断たれた。待っているのは、異邦の地バビロンでの死だけだった。深い絶望から出てきた彼らの心の叫びが、「我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか」(10節)というものであった。
 嘆き悲しむ捕囚の民の声は主なる神のもとに届いていた。そのような彼らに、主なる神が語られたのが、「わたしは生きている」(11節)というメッセージである。全く希望のない現実の中にも、主なる神は生きて働かれることを明らかにされた。
 その上で、主なる神は、捕囚の民にご自分のもとに立ち帰るよう改めて呼びかけられた。

「わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか」(11節)。

 この主なる神の言葉は、バビロンで死を待つばかりだった捕囚の民を新たな生へと招くものであった。主なる神が望まれるのは、彼らが滅びることではなかった。彼らが悔い改め、ご自身のもとに立ち帰ることだった。
 悔い改めとは、単に自分の歩みは間違っていたと後悔し、反省することではない。その思いがどんなに誠実なものであっても、主なる神のもとに立ち帰ることがなければ、そこに希望はない。イエス・キリストを裏切ったイスカリオテのユダ「後悔」がそうであったように(ルカによる福音書27章3~5節)。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか」と呼びかけられる主なる神は、放蕩息子の父親のように(ルカによる福音書15章11~24節)、イスラエルがご自分のもとに立ち帰るのを待っておられた。

2. 正しい人と悪人

 12~20節では、聖書全体を貫く主なる神の御心が告げられている。

「また悪人に向かって、わたしが、『お前は必ず死ぬ』と言ったとしても、もし彼がその過ちから立ち帰って正義と恵みの業を行うなら、すなわち、その悪人が質物を返し、奪ったものを償い、命の掟に従って生き、不正を行わないなら、彼は必ず生きる。死ぬことはない。彼の犯したすべての過ちは思い起こされず、正義と恵みの業を行った者は必ず生きる」(14~16節)。

 どんなに重い罪を犯した者であっても、主なる神に立ち帰って、罪から離れ、「正義と恵みの業を行うなら」、主なる神は彼が犯した罪を全て赦し、もう思い起こされない。新約聖書においても、徴税人ザアカイが「だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します」と言った時、イエス・キリスト「今日、救いがこの家を訪れた」と宣言された(ルカによる福音書19章8~9節)。
 悔い改めの機会は全ての人にある。誰にも悔い改めを通して主なる神の赦しを受ける道が開かれている。そして主なる神から罪を赦していただいたならば、もう過去の罪の責めで苦しまなくてもよい。
 一方、今まで正しいことを行ってきた人も、主なる神からまた離れ、罪を犯すならば、その不正の故に主なる神の裁きを受ける。

「正しい人の正しさも、彼が背くときには、自分を救うことができない。また、悪人の悪も、彼がその悪から立ち返るときには、自分をつまずかせることはない。正しい人でも、過ちを犯すときには、その正しさによって生きることはできない。正しい人に向かって、わたしが、『お前は必ず生きる』と言ったとしても、もし彼が自分の正しさに頼って不正を行うなら、彼のすべての正しさは思い起こされることがなく、彼の行う不正のゆえに彼は死ぬ」(12~13節)。

 この世の宗教の多くは、人間の死後について、その人が生前に行った善と悪の〈総量〉を比べ、どちらが多いかによって決まると教える。しかし、聖書は主なる神から離れたところに善も義もないと教えている。命の源であり、義なる方である主なる神から離れることは、命から離れることであり、「自分の正しさに頼って不正を行う」ことであり、死をもたらす。
 これに対し、一度信じたら救いは永遠に有効ではないのか、私達の救いは取り消されることがあるのかと思われるかも知れない。救いは〈点〉ではなく〈線〉である。出来事ではなく過程である。もし信仰が揺れ、途中で主なる神との関係を断ち切ってしまったら、救いは完成に到らない。主なる神は、救いに入れられた私達が、そこから落ちないように私達を掴み、導き、守って下さっている。私達はその愛の中にいる。だから、イエス・キリストを信じ、主なる神に立ち帰ったならば、その愛に留まり続けよう。

3. 悔い改めるならば生きる

 主なる神は、どこまでも公正な方であり、「人をそれぞれの道に従って裁」かれる(20節)。そして、〈現在〉私達が主なる神のもとに留まっていることが救いを決定する。悔い改める者には、赦しが与えられ、悔い改めない者には、主なる神の御怒りが注がれる。
 だが、このような主なる神の〈公正さ〉は、私達にしばしば不平不満をもたらす。この人は今まであれだけ悪いことをしてきたのに、どうしてイエス・キリストを信じただけで罪が全て赦されるのか。逆に、この人は今まで良いことを沢山しているのに、どうしてイエス・キリストを信じていないというだけで救われないのか。そのことを腹立たしく思う人がいる。
 確かに、イエス・キリストを信じていないけれども、人間的に見て、〈善いこと〉を沢山している方はいる。だが、人間の目に聖人のように見える人であっても、イエス・キリストを信じていなければ、その人は「正しさから離れて不正を行」っていると見なされ、「その不正のゆえに彼は死ぬ」(18節)。主なる神は絶対的な聖さを求められるからである。
 飛行機から地上を見下ろした時、誰が身長が高くて、低いかなど、問題にならないように、大きな罪を犯しているか、小さな罪を犯しているかということは、主なる神にとっては重要ではない。どちらも罪人であることに変わりはないからである。ファリサイ派の人が自分を徴税人と比較して優越感に浸ったというのは、主なる神から見れば馬鹿げたことであり、どちらも自分の罪を悲しんで、「神様、罪人のわたしを憐れんでください」と祈るべき者であった(ルカによる福音書18章9~14節)。パウロ「汚れている者、信じない者には、何一つ清いものはなく、その知性も良心も汚れています」(テトスへの手紙1章15節)と述べている。どんなに正しいことをしても、どんなに苦しい修行をしても、それによって私達が主なる神から義と認められることはない。御子イエス・キリストの十字架による罪の贖いだけが、私達が主なる神に義と認められる唯一の道である。人間の善行は〈救いに関しては〉無力である。
 主なる神は、私達が悔い改めるかどうかを何よりも重視している。私達にとって重要なのは、罪を認めて、主なる神に立ち帰ることである。他の人と比べて自分がどのレベルの人間であるかは重要ではない。ダビデが告白しているように、「神の求めるいけにえは打ち砕かれた霊」であり、「打ち砕かれ悔いる心」を、主なる神は「侮られ」ない(詩編51編19節)。
 私達に求められているのは、常に主なる神の御前に身を低くし、あらゆる罪についてすぐに悔い改めることである。これこそ、イエス・キリストを主とするということの意味である。自分達の罪のために深く絶望していたイスラエルの民に、悔い改めるなら生きると主なる神は約束された。自分の罪と弱さを認めて、主なる神から罪の赦しを受けよう。主なる神は、私達の過去の罪ではなく、今の悔い改めを見て下さる。