聖書日課 ゼファニヤ書2章(新共同訳 旧約pp.1471-1473)
ゼファニヤは、1章で、「主の日」の到来を預言し、ユダの民に裁きが近づいていることを警告した。続いて、2章4節以下では、ユダを取り囲む諸国の民にも主の日に厳しい裁きが臨むことが宣告されている(4~7節: ペリシテの滅亡、8~11節: モアブとアンモンの滅亡、12節: クシュの滅亡、13~15節: アッシリアの滅亡)。このように、「主の日」は、主なる神の裁きの日であり、滅亡と破壊の日であると警告されている。
しかし、私達が忘れてならないのは、主なる神は決して単なる裁きの神ではなく、赦しと救いと回復の神であるということである。
ゼファニヤはこう呼びかけている。
「主を求めよ。主の裁きを行い、苦しみに耐えてきた/この地のすべての人々よ/恵みの業を求めよ、苦しみに耐えることを求めよ。主の怒りの日に/あるいは、身を守られるであろう」(3節)
主なる神の御心は、裁きと滅びではなく、恵みと憐れみであり、私達に赦しと回復と祝福をもたらすことであるのが分かる。しかし、そのためには、まず罪が指摘され、悔い改めが促される必要がある。
それは、丁度バプテスマのヨハネが主イエス・キリストの前に現れて、人々に罪の悔い改めを説いたことと同じである。人々は、まず罪を認め、悔い改めて主なる神に立ち帰らなければならなかった。そうして初めて、赦しと癒しと祝福を与えるイエス・キリストが来られた。
イエス・キリストによる赦しと救いは、明確な罪の認識と悔い改めがあって初めて確かなものとなる。自分の罪を認め、悔い改めて主の御前にひれ伏すことがなければ、真の赦しと救いを受け取ることは出来ない。時に主の御言葉は、厳しく罪を指摘し、私達の心を突き刺す。しかし、それは私達が豊かな赦しと全き癒しと完全なる救いに至るための大切な入り口である。主なる神の御心は、裁きにではなく、あくまでも恵みと赦しと愛にあることを忘れてはならない。