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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 申命記28章

聖書日課 申命記28章(新共同訳 旧約pp.323-327)

 主なる神は、28章の前半で祝福について、後半で呪いについて語っている。その条件は何か。

「もし、あなたがあなたの神、主の御声によく聞き従い、今日わたしが命じる戒めをことごとく忠実に守るならば、あなたの神、主は、あなたを地上のあらゆる国民にはるかにまさったものとしてくださる」(1節)。

 祝福の内容は、〈物質的な豊かさ〉〈外敵への勝利〉として描かれている。一方、呪いの内容は、その逆である。異邦人に攻め込まれ、連れ去られ、辛酸をなめることになる。実際、後のイスラエルはバビロン捕囚という形でこの呪いを味わった。

 旧約の時代、主なる神は、祝福と呪いを分かり易く示された。即ち、〈物質的な豊かさと困窮〉であり、〈地上における繁栄と衰退〉である。

 ただ、このことを、そのまま新約の時代に適用することには慎重でなければならない。

 つまり、その人が繫栄しているのは、御心に忠実だからで、問題やトラブルに見舞われるのは、御心に背いているからであると単純に判断するのは正しくない。

 旧約では物質的な繁栄と衰退によって祝福と呪いを表現したが、新約では霊的な豊かさをもってそれを表現する。基本的にはそのように考えるべきだろう。

 イエス・キリストは「愚かな金持ち」のたとえの中で次のように語られている。「畑が豊作」「これから先何年も生きて行くだけの蓄えができた」農夫が、「作物をしまっておく」倉を「建て」て安心していると、主なる神は「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と言われた(ルカによる福音書12章16~20節)。

 この農夫は経済的な繁栄を享受していた。にもかかわらず、イエス・キリストは彼を「愚かな者」と言われた。そして、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」と言われた(同21節)。

 つまり、物質的な豊かさではなく、霊的な豊かさこそ本当の祝福であることを教えられた。

 また、「生まれつき目の見えない人」の前で、弟子達が「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」と尋ねた(ヨハネによる福音書9章1~2節)。つまり、彼が生まれつき目が見えないのは、主なる神の呪いだと考えたわけである。

 しかし、イエス・キリストの答えは違った。

「本人が罪を犯したからでも、その両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(同3節)。

 旧約の時代には呪いとされたことが祝福になると主は言われた。文字通り目が見えるような形で祝福が現れることもあれば、目が見えないままでも、主なる神の働きに用いられることも沢山ある。新約の時代の祝福は、物質的な豊かさで単純に計測出来ない。

 あなたが主なる神の御前で富んでいることこそ祝福である。忌憚なく主なる神の御前に出て、慰めを受け、主なる神と親しい交わりを持つことが出来る豊かさこそ、本当の祝福である。

「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました。『木にかけられた者は皆呪われている』と書いてあるからです」(ガラテヤの信徒への手紙3章13節)。

 このイエス・キリストを信じないことこそ、本当の呪いとなる。物質的には豊かでも、イエス・キリストを拒絶した人生に、一体どれほどの豊かさがあるというのだろうか。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
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