ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年に伝道開始50年を迎えます。

祈祷会奨励 2021年9月23日

祈祷会奨励 2021年9月23日
フィリピの信徒への手紙4章10~13節(新共同訳 新約p.366)
「満ち足りることを学ぶ」
新生讃美歌:
 453(主よ われは今ぞ行く)
 515(静けき河の岸辺を)
 521(キリストには替えられません)

 パウロは、フィリピの信徒への手紙を書いた時、牢獄に繋がれていた。そのような厳しい状況の中にあったにもかかわらず、彼は「わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです」(11節)と述べている。パウロはどうしてこのような告白をすることが出来たのだろうか。今日はこのことに関して3つの点を確認したい。

1. 主と個人的に出会ったから

 主と個人的に出会うとは、イエス・キリストを主と信じ、救われるということである。パウロイエス・キリストと出会う前から、イエス・キリストのことを知っていた筈である。しかし、彼が回心し、人生を全く変えられたのは、イエス・キリストと個人的に出会ったからである。
 その後、パウロは迫害に遭い、厳しい状況に置かれた。にもかかわらずパウロ「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(4節)と語っている。パウロがこのように言えたのは、イエス・キリストと個人的に出会う経験をしたからだろう。イエス・キリストと個人的に出会う経験をした時、私達はいつでも満ち足りることが出来る。先程歌った新生讃美歌521番の歌詞にもあるように、「世の宝もまた富も」「世の楽しみ」「世の誉れ」も、「有名な人になることも 人のほめる言葉も」「いかに美しいものも」イエス・キリストの代わりに私達の心を満たすものとはなり得ない。
 この点に関してパウロと対照的なのは、旧約聖書に出てくるソロモン王である。晩年のソロモンは、富、権力、知恵など、人間を幸せにすると思われるものを全て手に入れている。にもかかわらず、彼は「なんという空しさ/なんという空しさ、すべては空しい」と嘆いている(コヘレトの言葉1章2節)。主から離れてしまったからである。
 このことは私達も他人事ではない。神学校で学んでいた頃、私は毎日語学の課題に追われていた。そのような中、「自分は聖書を学びに来たのであって、語学の勉強がしたいのではない!」と呟いたことがあった。その時、聖霊が私に教えて下さったことがあった。「あなたは今朝私とどれだけ交わりましたか?」この言葉を聞いた時、はっとさせられたのを今でも覚えている。イエス・キリストと日々出会い、日々歩むということがなければ、私達の口からはすぐに不平不満が出てくる。聖書を読み、心に御言葉を蓄え、イエス・キリストから離れることがないようにしよう。

2. 主の御力を知る

 主の御力を知るとは、私達にはない力がイエス・キリストにはあると知ることである。パウロにとって、自分が貧しいか豊かか、能力があるかないかは、本質的な問題ではなかった。彼は「わたしを強めてくださる方のお陰で、わたしにはすべてが可能です」という大胆な告白をしている(13節)。私達も、新生讃美歌453番の歌詞にあるように、主の「みちからを得」る時、「主よ われは いまぞ行く」と言えるようになる。

「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神/地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく/その英知は究めがたい。疲れた者に力を与え/勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが/主に望みをおく人は新たな力を得/鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」(イザヤ書40章28~31節)。

 私が今ここで生きているのも、私の力ではなく、イエス・キリストの御力によるものである。私は弱い。私は貧しい。私には大したことは出来ない。しかし、イエス・キリストは強い。イエス・キリストは豊かである。イエス・キリストは何でもお出来になる。
 イエス・キリストの御力を知る時、私達はパウロのように「貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」と言うことが出来る(12節)。私達を生かし、力を与えて下さる主に感謝せずにはいられない。

「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしのうちに生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです」(ガラテヤの信徒への手紙2章20節)。

3. 主の真実を忘れない

「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせるようなことはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」(コリントの信徒への手紙一10章13節)。

「わたしたちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる。キリストは御自身を否むことができないからである」(テモテへの手紙二2章13節)。

 パウロはコリントの教会や弟子のテモテにこのように語っている。パウロを取り巻く状況は、教会の内においても外においても厳しいものだった。だが、彼は主が真実な方であることを決して疑わなかった。
 私達は、問題や試練に直面すると、主の真実を忘れ、疑いや恐れを抱いてしまうことがある。それどころか、十分過ぎるほどのものを与えられていながら、不平不満を言い、呟いてしまうこともある。しかし、主は真実な方である。だから、私達が耐えられないような試練には遭わせられない。また、試練からの脱出の道も備えて下さっている。主の真実を忘れないならば、私達は、新生讃美歌515番の歌詞にあったように、いかなる状況の中でも「心安し 神によりて安し」と言うことが出来る。苦しみや困難、試練の中でも主に感謝することが出来る。辛くても貧しくても主に感謝することが出来る。これに優る祝福はない。

まとめ

 パウロは主と個人的に出会った。そして、主の御力を知り、主の真実を忘れなかった。だから、いかなる時にも心が満ち足りていた。或る牧師は「状況に左右されない人こそ本物のクリスチャンです」と言っている。私達はどうだろうか。