聖書日課 マタイによる福音書25章(新共同訳 新約pp.49-51)
25章では、前の章で教えられた「世の終わるとき」に備えて、どのように生きるべきかが三つのたとえをもって語られている。
一つ目のたとえは、「十人のおとめ」のたとえである(1~13節)。「花婿を迎え」る「十人のおとめ」のうち(1節)、「五人」の「愚かなおとめたち」は、ともし火と共に「油の用意をしていなかった」ため(3節)、「真夜中」にやって来た「花婿」を「迎えに出」られず、婚宴の「戸が閉められ」てしまった。一方、「壺に油を入れて」用意しておいた「賢いおとめたち」は、花婿を出迎え、「婚宴の席に入」ることが出来た(10節)。イエス・キリストがいつ来られても大丈夫なように、備えて生きることが教えられている。
「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから」(13節)。
二つ目のたとえは、「タラントン」のたとえである(14~30節)。「僕たち」が主人から「財産を預」かった(14節)。「五タラントン預かった者」と「二タラントン預かった者」は、「それで商売をして」、それぞれ「五タラントン」と「二タラントンをもうけた」(16~17節)。しかし、「一タラントン預かった」僕は、何もせずに「主人の金を隠しておいた」(18節)。やがて「主人が帰って来」た時(19節)、商売をしてもうけた僕たちは、その「忠実」さを褒められ、より「多くのものを管理」するようになった(20~23節)。しかし、「恐ろしくな」って預かった財産を「隠してお」いた僕は、財産を「取り上げ」られて追い出されてしまった(28節)。
終わりの時代に生きる者は、主なる神からいただいている賜物を大いに用いて生きるべきである。イエス・キリストは、信仰に生きることが、そういう積極的なものであることを教えられた。
「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」(29節)。
三つ目は「羊」と「山羊」の話である(31~46節)。これは、たとえというよりも、イエス・キリストの再臨の時に実際に起きることであると思われる。「羊」に喩えられているのは、「飢えていた」人に「食べさせ」、「のどが渇いていた」人に飲み水を「飲ませ」、「旅をしていた」人に「宿を貸し」、「裸」の者に服を「着せ」、「病気」の人を「見舞い」、「牢にいた」人を「訪ね」た人達である(35~36節)。彼らは、主なる神に「祝福され」、御国を「受け継」ぐ者とされ(34節)、「永遠の命にあずかる」(46節)。一方、「山羊」とは、全くそうしなかった人達で(42~43節)、彼らは「永遠の罰を受け」る(46節)。
この時イエス・キリストは言われている。
「はっきり言っておく、わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(40節)。
自分の周りにいる病んだ人、痛んだ人を愛し、その必要に応えることは、イエス・キリストを愛し仕えることと同じである。何故なら、イエス・キリストは彼らの中におられるからである。そのようなイエス・キリストに、私達は日々出会っているだろうか。
祈り
愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの大きな愛の御手の中に置いて、御前に引き出して下さったことを心から感謝致します。
主よ、あなたが大切になさったのは、低められ卑しめられていた人でした。罪に泣き、自分を自分でどうすることも出来ない人でした。そのような人を「わたしの兄弟」と呼ばれました。
主よ、あなたは、このような罪深い、汚れた私をも「わたしの兄弟」と呼んで下さるのですか。
あなたが私を愛して下さったように、互いに愛し合うことが出来るよう、互いに大切にすることが出来るよう、あなたの御心を私達一人一人に注いで下さい。
今、困難の中にある兄弟姉妹お一人お一人を支えて下さい。また、その方のことを私達一人一人が覚え、あなたから与えられた「タラントン」を用いて、「それぞれの力に応じて」助けの手を差し伸べることが出来ますよう、力づけて下さい。
感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
西原新生バプテスト教会
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