聖書日課 ヨブ記37章(新共同訳 旧約pp.824-826)
エリフの長い発言が終わった。エリフは、終始一貫して、ヨブが主なる神よりも自分を正しいとするところに高ぶりの罪があると指摘し続けた。
「ヨブよ、耳を傾け/神の驚くべき御業について、よく考えよ。あなたは知っているか/どのように神が指図して/密雲の中から稲妻を輝かせるかを。あなたは知っているか/完全な知識を持つ方が/垂れこめる雨雲によって/驚くべき御業を果たされることを。南風が吹いて大地が黙すときには/あなたの衣すら熱くなるというのに/鋳て造った鏡のような堅い大空を/あなたは、神と共に/固めることができるとでもいうのか」(14~17節)。
主なる神は、「知識」においても「力」においても人間を超越した御方であり、人は主なる神の御前に何もなしえない。それなのに、ヨブは、自分の受けている苦難について沈黙される主なる神に対し、自分の正しさを訴え、それに答えようとされない主なる神は間違っていると主張した。
これに対しエリフは、悩みも苦しみも、全て起こっている出来事の中には意味があり、主なる神のメッセージが込められていると言った。ヨブは主なる神に対して高ぶっており、主なる神のメッセージを受けとめて悔い改め、主なる神に立ち帰らなければならないと迫った。
これにはヨブも耳を傾けずにはおれなかった。しかし、ヨブの苦難は、ヨブの高ぶりを指摘するために起こったのではない。寧ろヨブは、苦難が起こったから主なる神にその答えを求めて訴えていた。エリフには、それが分からなかった。そこにエリフの限界があった。
しかし、エリフの言葉を読んでいると、彼が自分の考えの限界に気付いている様子は全くない。それ故、ヨブに対する彼の批判は、ますます厳しくなっていった。エリフは、主なる神がヨブに与えた苦難の意味を、自分の理論に当てはめてしまっている点で、主なる神に対する決めつけと誤解という間違いを犯していたと言えるだろう。
結局、主なる神の言葉を待つ以外に道はない。これまでの議論は、そのことを知るために必要な時間だったのかも知れない。
「イスラエルよ、聞け。今日、わたしは掟と法を語り聞かせる。あなたたちはこれを学び、忠実に守りなさい」(申命記5章1節)。
西原新生バプテスト教会
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