聖書日課 ヨブ記38章(新共同訳 旧約pp.826-828)
遂に、主なる神が沈黙を破り、ヨブに答えられた。ヨブにとっては、待って、待って、待ち続けた末の答えである。しかし、その言葉は、決して甘く優しいものではなかった。寧ろ、非常に厳しくヨブの過ちを指摘する内容であった。それは、主なる神に対するヨブの高ぶりを批判する言葉だった。
「主は嵐の中からヨブに答えて仰せになった。これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて/神の経綸を暗くするとは。男らしく、腰に帯をせよ。わたしはお前に尋ねる、わたしに答えてみよ。わたしが大地を据えたとき/お前はどこにいたのか。知っていたというなら/理解していることを言ってみよ」(1~4節)。
そういう点では、この主なる神の言葉は、これまでエリフがヨブに対して言ってきたことと同じと言える。しかし、主なる神がエリフと全く同じお考えであったわけではない。主なる神は、あくまでもヨブを「わたしの僕」として信頼しておられ(1章8節)、ヨブの受けた苦難は、ヨブが主の僕であるからこそ与えられたものだった。エリフにはこのことが分からなかった。
それにしても、漸く答えを貰えたヨブにとって、この主なる神の答えは満足出来るものだったのだろうか。それは、ヨブの願いと求めに十分応えてくれるものだったのだろうか。そこでヨブが求めていたものが何であったかを確認する必要があるだろう。
ヨブが真に求めたもの、それは主なる神ご自身であった。彼は主なる神の臨在を求め、交わりを求め、その語りかけを必死に求めていた。ヨブは、身に覚えのない苦難を受け、その意味を主なる神に問いかけた。しかし、ヨブの必死の求めにもかかわらず、主なる神は答えて下さらなかった。この主なる神の沈黙は、主の僕として主なる神との親しい交わりの中に生きてきたヨブを、更に深く苦しめることになった。ヨブにとって主なる神との交わりは、人生の基盤であり、意味であり、目的そのものだったからである。
それ故、たとえ厳しい言葉であっても、主なる神の語りかけは、ヨブにとって大きな喜びであり、待ちに待った救いとなったに違いない。主なる神との交わり、そこにヨブの最大の求めと救いがあったのだから。
「神と共にあってわたしの家は確かに立つ。神は永遠の契約をわたしに賜る/すべてに整い、守られるべき契約を。わたしの救い、わたしの喜びを/すべて神は芽生えさせてくださる」(サムエル記下23章5節)。
祈り
愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日も溢れる恵みと慈しみによって包み、御前に引き出して下さったことを心から感謝致します。
主よ、自己憐憫と不平不満に満たされ、「経綸を暗くする」私をお赦し下さい。何も知らないのに、何かを知っているかのように振る舞い、高慢になる私をお赦し下さい。
主よ、あなたはこのような私を御前に引き出し、声をかけて下さいました。あなたに何も答えられなくても、あなたの御顔の光を照らしていただくと、この心の中に蠢く全てのものが消えてなくなります。あなたが満たして下さるからです。あなたは、このような私の中にも正しい心、清い心を作って下さいます。あなたが声をかけて下されば、塵の中にいる者も、勇士のように「腰に帯を」締めて立ち上がることが出来ます。
あなたは、ヨブの罪を暴かず、ご質問によってヨブの心を正されました。主よ、あなたに信頼する者は幸いです。
どうか、苦しみの中にある方お一人お一人にあなたの声をかけて下さい。お一人お一人を御前に引き出して下さい。心の中にある全てのものにあなたの光を照らし、お一人お一人を神の子、光の子の尊厳で満たして下さいますよう、心からお願い致します。
感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00
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