ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 ヨブ記34章

聖書日課 ヨブ記34章(新共同訳 旧約pp.820-822)

 エリフは続いてヨブの過ちを指摘した。ヨブが、主なる神よりも自分の方が正しいと主張したことに対して、その過ちを非難したのである。

「ヨブはこう言っている。『わたしは正しい。だが神は、この主張を退けられる。わたしは正しいのに、うそつきとされ/罪もないのに、矢を射かけられて傷ついた。』ヨブのような男がいるだろうか。水に代えて嘲りで喉をうるおし/悪を行う者にくみし/神に逆らう者と共に歩む。『神に喜ばれようとしても/何の益もない』と彼は言っている」(5~9節)。

 しかし、7~9節にあるようなことをヨブが語ったり行ったりしたことはない。ヨブに対するエリフの怒りが、こういう誇張した表現をさせてしまったのだと思われる。しかし、それは、エリフがヨブの立場に立って物事を判断していないことを表している。更に言えば、エリフがヨブに対抗的な立場に立っていることの表れと考えることが出来る。

 これでは、どんなに論じ合ったとしても、理解し合うことは不可能に違いない。互いに自分の正しさを主張するばかりでは、いつまで経っても折り合いをつけることは出来ない。相手の立場に立たない限り、互いの間に共通理解を得ることは出来ない。ヨブと3人の友人達は、そのことを悟ったのかも知れない。その点では、エリフよりも彼らの方が一歩進んでいたと言える。

 しかし、どちらにしても、答えは見えないままである。ヨブも、3人の友人達も、そしてエリフも、それぞれ自分の信じる立場から懸命に考え、議論した。しかし、ヨブの苦難の意味は見出せないまま、そして、彼らの間に共通の認識は得られないままだった。

 ヨブが友人達に求めていたことは、苦難の意味を教えてもらうことではなかった。それが無理であることはヨブ自身もよく分かっていただろう。ヨブはただ、自分の苦しみを受けとめ、その苦しみの中に共にいてくれることを友人達に願っていたに違いない。

 理解ではなく受けとめること、理屈ではなく共にいること、それが人を慰め癒す。しかし、口で言うのは簡単だが、実際に行うのは難しい。それには或る種の覚悟が必要だからである。その意味で「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」と言われたイエス・キリストには(マタイによる福音書28章20節)、その覚悟があったに違いない。

「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピの信徒への手紙2章6~8節)。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
メールアドレス

https://nschrist1972.hatenablog.com/
〈地図〉

www.google.com