聖書日課 エレミヤ書31章(新共同訳 旧約pp.1234-1237)
本章は「新しい契約」というタイトルの長い章であるが、その中にキリスト者にとってはよく聞き慣れた御言葉がある。
「主はこう言われる。ラマで声が聞こえる/苦悩に満ちて嘆き、泣く声が。ラケルが息子たちのゆえに泣いている。彼女は慰めを拒む/息子たちはもういないのだから」(15節)。
この節は、マタイによる福音書で引用されており、ヘロデ大王がイエス・キリストを殺すためにベツレヘムとその周辺一帯にいた2歳以下の男の子を皆殺しにした出来事を指して、「こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した」と記されている(マタイによる福音書2章17節)。そのため本節は、とても悲惨で悲しい預言の言葉と受けとめられていることが多いのではないかと思う。
しかし、元々のエレミヤの預言には、16節と17節が続いている。
「主はこう言われる。泣きやむがよい。目から涙をぬぐいなさい。あなたの苦しみは報いられる、と主は言われる。息子たちは敵の国から帰って来る。あなたの未来には希望がある、と主は言われる。息子たちは自分の国に帰って来る」(16~17節)。
主なる神は、子供を失って嘆き悲しむ人々に、「あなたの未来には希望がある」と呼びかけられた。「あなたの苦しみは報いられる」「息子たちは敵の国から帰って来る」と。どうしてそのようなことが言えるのだろうか?
主なる神ご自身が独り子の命を失った経験があるからである。つまり、父なる神は、人間のそのような絶望を知っておられる。それが十字架である。
主なる神の独り子であるイエス・キリストは、人間の罪と苦悩の全てを引き受けて、十字架の上にご自分の命を献げられた。十字架は主なる神の愛と義の究極の現れであり、人間の罪と苦悩の全てがそこに集約されている所である。つまり、十字架は人間の罪による苦悩と絶望の最終的な到着点であり、ここにおいて罪のための苦悩と絶望は全て終わりを遂げた。
この十字架に真の「希望」がある。永遠の赦しと癒しと救いの「希望」がここにある。主イエス・キリストの十字架によって、私達の「未来には希望がある」!
祈り
愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの大きな愛の御手に包んで、御前に引き寄せ、祈りを与えて下さることを感謝致します。
主よ、あなたを呼び求め、あなたを探し求める心、祈りの心を与えて下さい。絶望と苦しみの淵に落ち込んだ時、そこに祈りを与えられるのは、主よ、あなたです。
自分の罪による苦悩と痛みの中から、あなたに呼びかける私達の声に耳を傾けて下さい。そこであなたに出会うことが出来ますように。
愛する人の中に痛み倒れている人が沢山います。主よ、彼らと共にあって下さい。彼らの心の中に、あなたを求める心を与え、祈りの霊を注いで下さい。その声に答えて下さい。
感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00
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