聖書日課 ヤコブの手紙1章(新共同訳 新約pp.421-422)
新約聖書で「試練」と訳されている言葉は、多くの場合「誘惑」と訳される。「試練」と「誘惑」は、日本語としてはかなり意味合いが異なるが、原文では同じ言葉である。
ここで言われている「試練」とは、キリスト者の身に降りかかる苦難のことである。当時のキリスト者にとっては、迫害が大きな割合を占めていたに違いない。しかし、2節に「いろいろな試練」とあるように、苦難は迫害だけではない。また、互いに絡み合っているものである。
いずれにせよ、苦難は人間を主なる神から引き離す「誘惑」としても働く。主なる神への〈信頼〉から〈疑い〉へと導く。そして、人間を罪へと引きずり込む力として働く。
だが、苦難が「誘惑」として働く時は、私達の信仰の内実が問われる時でもある。私達は一体誰を信じているのか。何を信じているのか。どのように信じているのか。そのことが問われる。
それ故、ヤコブは次のように励ましている。
「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい」(2節)。
もし苦難が「誘惑」でしかないならば、どう考えてもそれは喜びにはならない。しかし、苦難は単なる「誘惑」以上のものである。信仰の内実を問われることは、それ自体悪ではなく、寧ろ私達に必要なことである。それは「忍耐」を私達の内に生じさせるからである。
「信仰が試されることで忍耐が生じると、あなたがたは知っています」(3節)。
ここで言われている「忍耐」とは、人間の性質としての〈我慢強さ〉のことではない。「忍耐」と訳されている言葉は〈留まる〉という言葉に由来する。「忍耐」とは信仰に留まることの出来る力である。
そして、信仰に留まるためには、信仰の内実が明瞭でなければならない。私は誰を信じているのか、何を信じているのか、どのように信じているのかが明瞭になれば、信仰と共に希望がはっきりと見えてくる。そのように、信仰が試される時は、信仰が確かにされる時、希望が確かにされる時ともなり得る。
更に、ヤコブは次のように言う。
「あくまでも忍耐しなさい。そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」(4節)。
「完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人になります」という言葉は、私達の努力目標であるならば、到底受け入れることは出来ない。しかし、これは、信仰に留まることによって約束されている主なる神の御業として語られている。ここで「完全」と訳されているのは〈大人〉を表す言葉である。イメージされているのは〈成長〉である。そして、成長させて下さるのは主なる神ご自身である。
主なる神は、試練を通して、私達を信仰者として成長させ、完成へと向かわせ、神の国へと備えさせる。そのことによって、私達の希望はますます確かにされていく。
西原新生バプテスト教会
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