ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 マタイによる福音書3章

聖書日課 マタイによる福音書3章(新共同訳 新約pp.3-4)

 マタイは、1章から2章にかけてイエス・キリスト誕生の出来事を記してきたが、3章に入ると、一足飛びにイエス・キリストの公生涯の始めの出来事について記している。本章の前半ではバプテスマのヨハネの活動について、後半では主イエス・キリストバプテスマについて記されている。

 バプテスマのヨハネは、ユダヤの荒れ野で「天の国が近づいた」と説き、悔い改めを迫った(1~2節)。天の国とは、主なる神の主権と支配を意味する。ヨハネは、いよいよメシア(救い主)が来臨し、世を支配する時が来たと宣言したのである。

 大勢の人々がヨハネのもとを訪れ、ヨルダン川で悔い改めのバプテスマを受けた(5~6節)。その中の一人に、主イエス・キリストがいた(13節)。ヨハネは驚き、「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに、あなたが、わたしのところへ来られたのですか」と思いとどまらせようとした(14節)。ヨハネは悔い改めのバプテスマを授けていたが、イエス・キリストは唯一罪のない方だったからである。しかし、イエス・キリストはこのようにお答えになった。「今は、止めないでほしい、正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです」(15節)。

 主イエス・キリストは、何故バプテスマを受けられたのだろうか。それは、イエス・キリストが私達の罪の全てを身代わりに背負う救い主として来られたからである。つまり、イエス・キリストは罪人の代表として悔い改めのバプテスマを受けて下さったのである。そういう意味で、ここには既にイエス・キリストの十字架が指し示されているとも言えるだろう。

 イエス・キリストが、バプテスマを受け、水の中から上がられると、「そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降って来るのを御覧になった」と記されている。そして、その時、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言う声が、天から聞こえてきた(16~17節)。ここに、父と子と聖霊の三位一体の神の臨在が現された。

 この時天から聞こえてきた声は、勿論主イエス・キリストに対して言われた言葉である。しかし、イエス・キリストが罪人の身代わりであり代表である故に、この言葉は、イエス・キリストを信じる私達にも語りかけられていると受けとめることが出来る。

「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」…この主なる神の語りかけを、日々心に聴き続けていくこと、そこに恵みと平安の源がある。