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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

主日礼拝宣教 2021年9月5日

主日礼拝宣教 2021年9月5日
エゼキエル書34章1~16節(新共同訳 旧約pp.1352-1353)
「主こそ真の牧者」

 今日私達に与えられた御言葉において、エゼキエルは、主なる神によるイスラエルの民の救いについて語っている。それは、イスラエルの牧者たち」(2節)として立てられていた国の指導者の統治に対し、主なる神が介入することによって始められる救いである。
 エゼキエル34章は、教会学校の教案誌『聖書教育』で今日学ぶことになっている箇所であるが、先週宣教の準備をしていた最中、菅義偉首相が辞任を表明した。しかし、今日の箇所に出てくるイスラエルの牧者たち」を、菅義偉首相と安易に結び付けるべきではないだろう。寧ろ主なる神が、国の指導者に対し、何を求めておられるか、どのような政治を〈善政〉或いは〈悪政〉と見なされるかを、今日は御言葉から確認したい。その上で、御言葉に照らしてみて、菅首相がこの1年間取り組んだ政治はどのように評価出来るか、各自判断していただきたい。

1. 羊の群れを養う牧者がいない

 エゼキエルの時代、イスラエルの王や貴族達といった社会の支配層は、民のことを顧みず、自分達の利益のことばかり考えていた。また、祭司達は、権力者の顔色を伺い、彼らが律法を公然と無視し、偶像を礼拝していても何も言わなかった。預言者達も、支配層が民から搾取し、富を築き上げていても、指摘も叱責もしなかった。
 エゼキエルは、主なる神の御言葉を受けて、イスラエルの牧者たち」の過ちを指摘する。

「災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われた者を連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した」(2~4節)。

 羊の群れを養うべきイスラエルの牧者たち」は、弱っている者を強めず、病気の者を癒さず、傷ついた者の手当てをせず、迷い出た者を連れ戻さず、失われた者を探さず、ただ力ずくで、苛酷に民を支配しただけだった。不義と不正と腐敗の道を突き進む彼らに対し、主なる神は「災いだ」と言われる。
 国において法律と行政に携わる者として任命された人は、主なる神の正義を行うべき者として立てられている。社会の正義を実現することと主なる神の義を遂行することは、別のことではない。国を正しく導くべき指導者がその責任を果たさない時、被害を受けるのは民である。

2. 羊の群れを探す牧者がいない

 牧者の役割は、羊の群れを養い、羊の群れが野獣に食べられないように守ることである。だが、イスラエルの牧者たち」は、羊を守るどころか、野獣に食われるように仕向けたと言ってもいいような有様だった。

「彼らは飼う者がいないので散らされ、あらゆる野の獣の餌食となり、ちりぢりになった。わたしの群れは、すべての山、すべての高い丘の上で迷う。また、わたしの群れは地の全面に散らされ、だれひとり、探す者もなく、尋ね求める者もない」(5~6節)。

 羊の群れが散り散りになり、野獣の餌食になってしまったのは、牧者が彼らを守ろうとしなかったからである。彼らは、委ねられた羊の群れのことを思わず、自分の欲得のことしか興味がなかった。そのため、羊が全地に散らされても、「群れを探しもしな」かった(8節)。実際、イスラエルの民は捕囚としてバビロンによって連行され、バビロンの町々に散らされていった。エゼキエルもその一人だった。
 主なる神は、散らされるイスラエルの民の様子を見て、深く悲しまれた。「わたしの群れ」と言われているように(6節、8節)、イスラエルは主なる神に属する民だからである。イスラエルは主なる神のものであり、それ故、主なる神はご自分の民の苦しむ姿に胸を痛められた。
 国の指導者は、主なる神から委ねられた使命を果たすこと、その民を主なる神の御心に従って導くことを求められている。そのことを蔑ろにして、自分のことしか考えていない指導者に対し、主なる神はお怒りになる。
 このことは牧師も他人事ではない。牧師も教会で聖徒達を御言葉によって養い、導くために存在している。自分の召命を忘れ、委ねられた聖徒達を顧みなかったと主なる神から叱責されることがないよう、為すべき務めを忠実に果たしていきたい。

3. 主が牧者となって下さる

イスラエルの牧者たち」が、弱った羊を養わず、迷い出た羊を探そうとしない中、主なる神は、ご自分の民がたとえ「地の全面に散らされ」ようとも(6節)、自ら探し、救い出すと言われる。

「牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す。わたしは雲と密雲の日に散らされた群れを、すべての場所から救い出す」(12節)。

 ただ探し出すだけではない。主なる神は、やるべきことをしない「牧者たちに立ち向か」い、「彼らに群れを飼うことをやめさせる」(10節)。イスラエルの牧者たち」は、主なる神によって立てられた。だから、彼らの支配を終わらせるのも主なる神である。
 その上で、主なる神は「自ら」「彼らの世話をする」と言われる(11節)。

「わたしは彼らを諸国の民の中から連れ出し、諸国から集めて彼らの土地に導く。わたしはイスラエルの山々、谷間、また居住地で彼らを養う。わたしは良き牧草地で彼らを養う。イスラエルの高い山々は彼らの牧場となる。彼らはイスラエルの山々で憩い、良い牧場と肥沃な牧草地で養われる。わたしがわたしの群れを養い、憩わせる、と主なる神は言われる。わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする。しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは公平をもって彼らを養う」(13~16節)。

 主なる神はご自分の民が滅びるのを望まない。それ故、自ら牧者となり、国々から民を集め、「良い牧場」で養われる。
 では、このことは、いつ、どのようにして実現したのか。御子イエス・キリストがこの世に来られたことによってである。イエス・キリストは言われた。

「わたしが来たのは、羊に命を得させ、豊かに得させるためである。わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは、羊のために命を捨てる」(ヨハネによる福音書10章10~11節)。

「良い羊飼い」として来られたイエス・キリストは、「群衆が飼い主のない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(マタイによる福音書9章36節)。失われた者を探し、傷ついた者の手当てをし、弱っている者を力づけ、強い者を滅ぼし、正義に従って民を養うという約束を、主なる神は、御子イエス・キリストによって実現された。また、「良い羊飼い」のモデルを、イエス・キリストを通して示された。
 今日主なる神は、人間の不完全さ、愚かさ、足りなさ、罪深さを十分ご存知の上で、民を導き、養うという働きを人間に委ねられている。政治においても、経済においても、教育においても、地域においても、家庭においても、そして教会においても〈牧者〉がいる。それは、人に仕え、人を教え、世話し、正しい道に導くためである。
 主なる神は、罪深い私達をきよめ、義の道に導くために、聖霊を与えて下さる。そして、正義を行うための力と知恵、愛を与えて下さる。聖霊に導かれ、イエス・キリストのもとに留まるならば、イエス・キリスト「良い羊飼い」として私達を養って下さる。そして、私達自身もイエス・キリストに似た〈牧者〉へと変えられていく。