ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 歴代誌上3章

聖書日課 歴代誌上3章(新共同訳 旧約pp.629-630)

 3章では、ダビデに焦点が当てられ、彼の子孫の系図がバビロン捕囚期に至るまで詳細に書き記されている。

ヘブロンで生まれたダビデの息子は次のとおりである。長男はアムノン、母はイズレエル人アヒノアム。次男はダニエル、母はカルメル人アビガイル。三男はアブサロム、ゲシュルの王タルマイの娘マアカの子。四男はアドニヤ、ハギトの子。五男はシェファトヤ、母はアビタル。六男はイトレアム、母はダビデの妻エグラ。ヘブロンで六人の息子がダビデに生まれた。ダビデはそこで七年と六か月、エルサレムで三十三年間王位にあった。エルサレムで彼に生まれた息子は次のとおりである。シムア、ショバブ、ナタン、ソロモンの四人。母はアミエルの娘バト・シュア。更に、イブハル、エリシャマ、エリフェレト、ノガ、ネフェグ、ヤフィア、エリシャマ、エルヤダ、エリフェレトの九人がいる。これが側女らによる子を除くダビデの子のすべてである。タマルは彼らの姉妹である」(1~9節)。

 旧約の歴史には、信仰の父アブラハム、偉大な指導者で主なる神から律法を授かったモーセ、大預言者エリヤなど、信仰の先達が数多く登場する。しかし、神の民の系図という観点から見た時、最重要人物として挙げるべきは何と言ってもダビデだろう。それは、単にダビデイスラエル王国を確立した王だからではない。その信仰の故に、ダビデ王国の王座が永遠に継続すること、やがて彼の子孫から全世界の救い主であるイエス・キリストが誕生することが約束されたからである。

 ダビデの王座が永遠に続く。70年間も国を失っていた彼らにとって、この主なる神の約束は、何よりも大きな慰めであり希望であったに違いない。そして、その約束の通り、ユダの民は再び約束の地に帰って来た。その時、彼らを導いたのは、「ゼルバベル」というダビデの血を引く指導者だった(19節)。ダビデの王座は、確かに消えることはなかった。

 しかし、だからと言って「ダビデは凄い!」と言うことだけで終わってはいけない。3章の系図に登場するのは、決して模範とされるべき人だけではないからである。それどころか、ダビデ自身も姦淫と殺人の罪を犯している。その意味で、この系図は主なる神への反逆の歴史でもある。そして、その罪のために、彼らは結局滅ぼされてしまった。

 それでも、彼らは再び回復され、国は再建された。それは、主なる神が約束に忠実な方だからであり、イスラエルを愛する主なる神の誠実と恵みによる出来事であった。つまり、本当に凄いのは、主なる神の愛、主なる神の恵みである。

西原新生バプテスト教会
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聖書日課 歴代誌上2章

聖書日課 歴代誌上2章(新共同訳 旧約pp.627-629)

 神の民イスラエル系図が続く。1章は、アダムからイサクの子エサウまでの系図、2章は、イサクの子イスラエル(ヤコブ)からダビデまでの系図となっている。

イスラエルの子らは次のとおりである。ルベン、シメオン、レビ、ユダ、イサカル、ゼブルン、ダン、ヨセフ、ベニヤミン、ナフタリ、ガド、アシェル。ユダの子エル、オナン、シェラの三人は、カナン人バト・シュアを母として生まれた。ユダの長男エルは、主の御旨に背いたので、主は彼の命を絶たれた。ユダの嫁タマルはユダの子ペレツとゼラを産んだ。ユダの子は皆で五人であった」(1~4節)。

 特に、本章では、イスラエルの12人の息子のうち、「ユダ」の子孫に焦点が当てられ、次の3章では、「ユダ」の子孫の中でもダビデに焦点が当てられている。

「ボアズにはオベドが生まれ、オベドにはエッサイが生まれ、エッサイには長男エリアブ、次男アビナダブ、三男シムア、四男ネタンエル、五男ラダイ、六男オツェム、七男ダビデが生まれた」(12~15節)。

 これは歴代誌が記された当時の読者にとっては、とても馴染み深い系図であったに違いない。というのも、歴代誌は、バビロン捕囚から解放されて約束の地カナンに帰還した神の民に、礼拝の民イスラエルの再建のためのヴィジョンと励ましを与える目的で書かれた書であるが、帰還した人々の殆どは、南ユダ王国の子孫だったからである。

 長い間国を失っていた彼らが、自分達の国を再建するには、自分達のルーツを改めて確認し、神の民・礼拝の民としての自覚とヴィジョンを持つ必要があった。その意味で、歴代誌は、全ての教会が目指すべき目標、そして全てのキリスト者が歩むべき人生の青写真を与えてくれる貴重な励ましの書であると言えるだろう。

 あなたの人生のヴィジョンは、どのようなものだろうか。勿論、人それぞれ目指すべきところは違うだろう。しかし、全てのキリスト者、いや、全ての人々に対して主なる神が願っておられるのは、神の民としての自己認識と礼拝の民としての人生である。その意味で、歴代誌は、主なる神がお与え下さった、祝福と幸福の人生の青写真と言うことが出来る。

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聖書日課 歴代誌上1章

聖書日課 歴代誌上1章(新共同訳 旧約pp.625-627)

 今日から歴代誌を読んでいく。歴代誌は、「アダム」からバビロン捕囚期までの神の民の系図と歴史が記されている、創世記から列王記までの〈まとめ〉のような書である。

「アダム、セト、エノシュ、ケナン、マハラルエル、イエレド、エノク、メトシェラ、レメク、ノア、セム、ハム、ヤフェト。ヤフェトの子らは、ゴメル、マゴグ、メディア、ヤワン、トバル、メシェク、ティラス。ゴメルの子らは、アシュケナズ、ディファト、トガルマ。ヤワンの子らは、エリシャ、タルシシュ、キティム、ロダニム。ハムの子らは、クシュ、エジプト、プト、カナン。クシュの子らは、セバ、ハビラ、サブタ、ラマ、サブテカ。ラマの子らは、シェバ、デダン。クシュにはまた、ニムロドが生まれた。ニムロドは地上で最初の勇士となった」(1~10節)。

 では、これまでの単なる繰り返しかと言うと、勿論そうではない。歴代誌には明らかな特色が見られる。それは、歴代誌の著者の神学的視点に基づいて新たにまとめられた神の民の歴史と言うことが出来る。つまり本書には「真の神を礼拝する民として選ばれたイスラエル」という神学的視点からの歴史が記されている。

 では、イスラエル人ではない私達とは関係のない歴史なのかと言うと、それもまた違う。歴代誌は、〈イスラエルの始祖〉アブラハムからではなく(27~28節)、〈人類の始祖〉「アダム」から系図を書き始めている(1節)。このことは、本来人類は全て、真の神なる主を礼拝する者となるために創造されたということを示している。即ち、主なる神はイスラエルだけの神ではなく、全ての人種、民族、国々を含む全人類にとっての神である。

 では、イスラエルは何のために選ばれたのだろうか。神の民イスラエルは、真実な礼拝を献げることにその選びの目的があった。罪に陥った全人類の中で、まずこの民が祝福を受け、ひいては、全世界の人々や国々にも真の礼拝と祝福をもたらす民として用いられるためである。

 私達は、この書を学ぶことによって、真実な礼拝を回復するための大切な手がかりを得ることが出来る。歴代誌は、そのためにこそ書かれた書である。

「しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ」(ヨハネによる福音書4章23節)。

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聖書日課 列王記下25章

聖書日課 列王記下25章(新共同訳 旧約pp.622-624)

 列王記最後の25章には、エルサレム陥落の出来事が記されている。ダビデ、ソロモンと続いたイスラエルの栄光の最盛期の後、王国は二つに分裂した。やがて北イスラエル王国アッシリアによって滅ぼされ、それから百数十年後には、南ユダ王国もバビロンによって滅ぼされてしまった。

 その意味では、列王記は〈右肩下がり〉の暗い歴史と言えるだろう。しかし、これは単なる栄枯盛衰の物語ではない。歴史の表面だけを見れば、確かに人間世界のパワーゲームにしか見えないかも知れない。しかし、そこには、神の民を選び、導き、彼らと共に歩まれた主なる神の姿が記されている。列王記に記された歴史の本質はそこにある。即ち、列王記は、主なる神がどのように神の民イスラエルと関わって下さったかという記録である。

 私達は、聖書に書き記されている歴史の中に、今も私達と共にいて働いておられる主なる神を見出し、主なる神を知ることが出来る。聖書を学ぶ目的はそこにある。つまり、人間の罪と滅びの現実を知ると共に、そのような人間を決して見捨てることなく、絶えず呼びかけ、働きかけ、救おうとされる生ける真の神をこの歴史の中に見出し、信じ、従っていく。それが聖書を学ぶ最も大切な意味である。あなたは、そのような主なる神を既に見出しておられるだろうか。そして、主なる神の深い愛と恵みを味わっておられるだろうか。

 ところで、列王記は最後に、バビロンに連れて行かれた「ユダの王ヨヤキン」が、「捕囚となって三十七年目」に栄誉を回復し、「バビロンの王」によって「手厚くもてな」されるようになったことを記して終わっている。

「ユダの王ヨヤキンが捕囚となって三十七年目の第十二の月の二十七日に、バビロンの王エビル・メロダクは、その即位の年にユダの王ヨヤキンに情けをかけ、彼を出獄させた。バビロンの王は彼を手厚くもてなし、バビロンで共にいた王たちの中で彼に最も高い位を与えた。ヨヤキンは獄中の衣を脱ぎ、生きている間、毎日欠かさず王と食事を共にすることとなった。彼は生きている間、毎日、日々の糧を常に王から支給された」(27~30節)。

 これは、暗闇の中の一筋の光であり、神の民は決して見捨てられていないという希望の証しと言えるだろう。イスラエルの罪を裁かれた主なる神は、裁きの向こうに信仰と国家の回復を約束して下さったのである。

「主はこう言われる。バビロンに七十年の時が満ちたなら、わたしはあなたたちを顧みる。わたしは恵みの約束を果たし、あなたたちをこの地に連れ戻す」(エレミヤ書29章10節)。

 主なる神と共に歩む人生に、決して絶望などない。

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聖書日課 列王記下24章

聖書日課 列王記下24章(新共同訳 旧約pp.621-622)

 ヨシヤ王が「エジプトの王ファラオ・ネコ」によって討たれた後(23章29節)、ユダ王国には、ヨアハズ、ヨヤキム、ヨヤキン、ゼデキヤと4人の王が続いた。彼らは皆、「主の目に悪とされることをことごとく行った」が(23章32節、37節、24章9節、19節)、遂に、ヨヤキンの時代に、「バビロンの王ネブカドネツァル」エルサレムに攻め上って来て」、これを占領・破壊し、王をはじめとする多くの人々を「捕囚としてバビロンに連れ去」った(14~16節)。

「そのころ、バビロンの王ネブカドネツァルの部将たちがエルサレムに攻め上って来て、この都を包囲した。部将たちが都を包囲しているところに、バビロンの王ネブカドネツァルも来た。ユダの王ヨヤキンは母、家臣、高官、宦官らと共にバビロン王の前に出て行き、バビロンの王はその治世第八年に彼を捕らえた。主が告げられたとおり、バビロンの王は主の神殿の宝物と王宮の宝物をことごとく運び出し、イスラエルの王ソロモンが主の聖所のために造った金の器をことごとく切り刻んだ」(10~13節)。

 これが〈バビロン捕囚〉と呼ばれる出来事である。これから70年間、神の民は、国を失い、異教の地で「捕囚として」苦しみに耐えなければならなくなってしまった。それは、彼らが自分達の神を捨てて、偶像に走り、「主の目に悪とされることをことごとく行った」ことに対する裁きであり、自分で蒔いた種を刈り取る自業自得の事態であったと言えるだろう。

 だが、彼らがバビロンに降伏し、その地で生きることは、主なる神の御心でもあった。そのように言うと驚かれるかも知れない。実際、当時の人々も驚き、そのような預言をしたエレミヤを非難した(エレミヤ書参照)。

 しかし、彼らは、その苦しみの中で自分達の歴史を振り返り、罪を悔い改め、再びイスラエルの主を慕い求めるようになっていった。その意味で、この苦しみは、彼らが再び神の民として回復されるために必要だった。つまり、バビロン捕囚という裁きは、神の民の回復と救いのためでもあったと言うことが出来る。

 勿論、苦難は、経験しないに越したことはない。しかし、苦しみによって得られる祝福もある。苦しまなければ得ることのない恵みもある。主なる神は、苦しみも喜びも用いて、全てを益として下さる御方である。だから、目の前の出来事に一喜一憂するのではなく、主なる神が全てを益として下さることを信じて、希望を抱いて歩んでいこう。

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマの信徒への手紙8章28節)。

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聖書日課 列王記下23章

聖書日課 列王記下23章(新共同訳 旧約pp.618-621)

 ヨシヤ王は凄まじい勢いで宗教改革を進めて行った。彼はまず、エルサレム中の人々を神殿に集め(1節)、「主の神殿で見つかった契約の書のすべての言葉を彼らに読み聞かせ」(2節)、「この書に記されているこの契約の言葉を実行することを誓った」(3節)。

 そして、主の神殿の中に置かれていた「バアルやアシェラ」の像を「焼き払」い(4節)、また「ユダの町々やエルサレム周辺の聖なる高台」を取り除いて、そこに仕える「神官たち」や、偶像に「香をたく者たちを廃止した」(5節)。更に、ベテルやサマリヤの町々にも出て行って、そこにあった偶像や、高台を全て取り壊していった。まさに、ヨシヤ王の信仰の徹底ぶりが窺えるところである。

 しかし、それと同時に思うのは、神の民がいかに深く異教的習慣に染まっていたかということである。王宮、神殿、町々、山々など、イスラエル中のあらゆる所に偶像が置かれ、異教の儀式が執り行われていた。今や偶像礼拝は全く日常化したものとなっていた。これでは、とても「祭司の王国、聖なる国民」とは言えない(出エジプト記19章6節)。それどころか、彼らの罪は最早裁かれても仕方のないところにまで達していた。

「ヨシヤはまた口寄せ、霊媒、テラフィム、偶像、ユダの地とエルサレムに見られる憎むべきものを一掃した。こうして彼は祭司ヒルキヤが主の神殿で見つけた書に記されている律法の言葉を実行した。彼のように全くモーセの律法に従って、心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして主に立ち帰った王は、彼の前にはなかった。彼の後にも、彼のような王が立つことはなかった。しかし、マナセの引き起こした主のすべての憤りのために、主はユダに向かって燃え上がった激しい怒りの炎を収めようとなさらなかった」(24~26節)。

 勿論、ヨシヤ王が推し進めた改革は素晴らしいものだった。彼は国中から、偶像も高台もそこに仕える祭司たちも全て一掃した。しかし、それほど熱心で急激な改革も、人々の心を真に変えるには至らなかった。それは、ヨシヤ王の宗教改革が、いわゆる〈上からの改革〉であって、〈下からの(草の根の)改革〉ではなかったからである。勿論、外面的な改革が無意味ということではない。しかし、宗教改革の本質は、やはり内面、つまり人の心にこそある。主なる神は人の上辺ではなく、心を見ておられる。

 裁きは最早免れないところにまで来ていた。国家の滅亡が近づいていた。それは罪を犯し続けてきた結果である。しかし、それと共に決して忘れてはならないのは、そのような試練を通過することで、神の民は真の悔い改めに至ったということである。そして、主なる神の約束通り、彼らは再びカナンの地に帰って来た。人間の罪による滅びは、主なる神の愛による救いによって打ち破られた。ここに主なる神の誠実と深い憐れみが示されている。

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聖書日課 列王記下22章

聖書日課 列王記下22章(新共同訳 旧約pp.617-618)

 マナセ王、アモン王と続いた長期にわたる不信仰の時代の後、ユダ王国にヨシヤ王が誕生した。彼は僅か「八歳で王とな」ったが、生涯にわたり「主の目にかなう正しいことを行い、父祖ダビデの道をそのまま歩み、右にも左にもそれなかった」(2節)。

 ヨシヤ王は「その治世の第八年、彼がまだ若かったときに、父祖ダビデの神を求めることを始め、第十二年に聖なる高台、アシェラ像、彫像、鋳物の像を取り除」宗教改革を実行した(歴代誌下34章3節)。更に「その治世の第十八年に、その地と神殿を清めた後、主の神殿を修理」した(同8節)。そして、その修理中に、それまで長い間見失われていた「律法の書」が発見された。

「そのとき大祭司ヒルキヤは書記官シャファンに、『わたしは主の神殿で律法の書を見つけました』と言った。ヒルキヤがその書をシャファンに渡したので、彼はそれを読んだ」(8節)。

「律法の書」の発見は、決して偶然ではない。それはヨシヤ王にとって何よりも必要な導きだった。主なる神は、真実に主を尋ね求める者に対して、一番良い時に一番必要なものをお与え下さる方である。その意味で、「律法の書」の発見は、まさに主なる神の絶妙なタイミングだったと言えるだろう。

 ヨシヤ王は、「律法の書の言葉を聞くと、衣を裂」き、家臣たちに言った(11~12節)。

「この見つかった書の言葉について、わたしのため、民のため、ユダ全体のために、主の御旨を尋ねに行け。我々の先祖がこの書の言葉に耳を傾けず、我々についてそこに記されたとおりにすべての事を行わなかったために、我々に向かって燃え上がった主の怒りは激しいからだ」(13節)。

 律法の教えに照らせば、イスラエルの罪は、滅亡を免れないところにまで至っていたことが分かる。それ故、ヨシヤ王は主の教えを真剣に受けとめ、新たに主なる神の御旨を求めた。すると、主なる神はヨシヤに言われた。

「わたしがこの所とその住民につき、それが荒れ果て呪われたものとなると言ったのを聞いて、あなたは心を痛め、主の前にへりくだり、衣を裂き、わたしの前で泣いたので、わたしはあなたの願いを聞き入れた、と主は言われる。それゆえ、見よ、わたしはあなたを先祖の数に加える。あなたは安らかに息を引き取って墓に葬られるであろう。わたしがこの所にくだす災いのどれも、その目で見ることがない』」(19~20節)。

 滅亡に向かって突き進む歴史の中で、ただ一人主の御旨を求めるヨシヤの祈りに、主は耳を傾け答えて下さった。状況はどうであれ、主に心を向け続ける者に主なる神は必ず希望をお与え下さる。私達も、主に心を向け、主の御旨を尋ね求め続ける者でありたい。

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主日礼拝宣教 2022年9月11日

主日礼拝宣教 2022年9月11日
ダニエル書6章10〜29節(新共同訳 旧約pp.1390-1392)
「獅子の洞窟の中で」

 私達は、この世にあって信仰を守って生きようとすると、迫害や苦難をしばしば経験する。しかし、そのような苦しみは、私達の信仰を更に成長させ、私達を神の国に相応しい者に変える過程にもなる。今日私達に与えられた御言葉から、この世の苦難にどのような姿勢で臨むべきかを見てみよう。

1. ダレイオス王の勅令

 ベルシャツァル王が殺され、バビロンは一夜のうちに滅んだ(5章30節)。そして、続いて「王国を継いだのは、メディア人ダレイオスであった」(1節)。
 ダレイオスが支配した地域は広大であったため、彼は「百二十人の総督を置いて全国を治めさせ」、またその総督を統括するために、「大臣を三人、その上に置いた。ダニエルはそのひとりであった」(2~3節)。しかも、ダニエルには「優れた霊が宿って」おり、「他の大臣や総督のすべてに傑出していた」ので、「王は彼に王国全体を治めさせようとした」(4節)。ダニエルの知恵と聡明さは、国家と世代を超えて認められた。
 しかし、他の「大臣や総督」はダニエルを妬んだ。そこで彼らは、ダニエルをその地位から引きずり下ろすために、「政務に関してダニエルを陥れようと口実を探した」(5節)。ダニエルが隠している筈の不正を暴こうと、密かに調べ上げたのである。ところが、いくら探しても何も見つからなかった。ダニエルは業務において有能なだけでなく、生活においても非の打ち所がなかった。主なる神を知らない人は、悪を行っても、ばれなければ問題ないと考える。しかし、ダニエルは、主なる神を畏れ、愛し、常に主なる神の御前に敬虔に生きていたからである。
 反対者はダニエルを訴える口実を見つけられなかった。そこで、ダニエルを訴えられるよう、ダニエルが遵守する主なる神の律法と相反する「禁令」を作って、ダニエルがそれを犯すほかないようにする策を企んだ。彼らは、ダレイオス王に「次のような、勅令による禁止事項」「定め」ることを進言した。それは「向こう三十日間、王様を差し置いて他の人間や神に願い事をする者は、だれであれ獅子の洞窟に投げ込まれる」という内容であった(8節)。ダレイオス王は、自分の王権を確立させるための「勅令」を彼らが考え出したのだと信じ込み、喜んで「その書面に署名して禁令を発布した」(10節)。

2. 「いつものとおり」

 では、この知らせを聞いたダニエルはどうしただろうか。
 私達なら、慌てふためいて、どこかに逃げ込んだり、誰かに頼ったり、大騒ぎするかも知れない。或いは、「勅令」の期限は「三十日間」だから、その間を上手くやり繰りして切り抜けることを考えるかも知れない。
 しかし、ダニエルがしたことは「いつものとおり」であった。

「ダニエルは王が禁令に署名したことを知っていたが、家に帰るといつものとおり二階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた」(11節)。

 このような勅令が発布されたことを知っても、ダニエルは全く落ち着いていた。少しも慌てず、騒がず、「いつものとおり」「日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた」。ダニエルは反対者の意図を知っていた。しかし、主なる神だけを信じ、仕えることに関して決して妥協しなかった。ダニエルは、主なる神以外の何ものも拝まなかった。
「ダニエルがその神に祈り求めているのを見届け」るや、反対者たちは「王の前に進み出、禁令を引き合いに出して」、ダニエルを捕縛し、ダニエルを処刑するように王に訴え出た(12~14節)。ダニエルは、神の民として律法を守り行っていた故に裁かれることになった。主なる神を知り、その御言葉に従って生きることは、時に誤解され、攻撃を受けることになる。
 だが、この時慌てたのは寧ろダレイオス王だった。ダニエルを信頼していた王は、「たいそう悩み、なんとかダニエルを助ける方法はないものかと心を砕き、救おうとして日の暮れるまで努力した」(15節)。しかし、「王による勅令や禁令は一切変更してはならないことになって」いた(16節)。それは勅令を出した王自身も例外ではなかった。

3. 「お前がいつも拝んでいる神」

 ダニエルは、捕えられ、獅子の洞窟に投げ込まれた(17節)。ダレイオス王はこのような結果を招いたことを悔いて、「その夜は食を断ち、側女も近寄らせず、眠れずに過ごし」た(19節)。そして、「夜が明けるやいなや」、王は「急いで獅子の洞窟へ行」き(20節)、「不安に満ちた声」「ダニエルに呼びかけた」

「ダニエル、ダニエル、生ける神の僕よ、お前がいつも拝んでいる神は、獅子からお前を救い出す力があったか」(21節)。

 このような王の対応からも、ダニエルの人となりを知ることが出来る。
 ダニエルはいついかなる状況の中でも、主なる神を「いつも拝」み、主なる神を「いつも」畏れ敬った。時代が変わり、支配者が移り変わっても、ダニエルがいつも信頼され、重んじられ続けた秘訣、命の危険さえある危機的状況の中でも、ダニエルが平安を保ち続けることが出来た秘訣は、まさしくここにあった。
 そして、主なる神は、そのようなダニエルと共におられ、「天使を送って、獅子の口を閉ざし」、ダニエルを救い出された。ダニエルは獅子から「なんの危害も受け」なかった(23節)。主なる神に守られたダニエルを見たダレイオス王は、主なる神をほめたたえた。

「わたしは以下のとおりに定める。この王国全域において、すべての民はダニエルの神を恐れかしこまなければならない。この神は生ける神、世々にいまし/その主権は滅びることなく、その支配は永遠。この神は救い主、助け主。天にも地にも、不思議な御業を行い/ダニエルを獅子の力から救われた」(27~28節)。

 ダレイオス王は自分自身が神として崇められており、自分が仕える神々もいた。しかし、「ダニエルの神」こそが唯一にして、「永遠」に変わることのない真の神であることを認める文書を国中に発布した。そして、ダニエルを救った主なる神を讃美し、この神を「恐れかしこ」むように命じて、主なる神に栄光を帰した。ダニエルの信仰は、ダレイオス王を通して人々に主なる神の栄光を証しするという実を結んだ。

4. 信仰によって悪に打ち勝つ

 主なる神は、日常をあらゆることを通して、ご自身を示そうとしておられる。私達は、いつも何を畏れ、何を拝し、何を求めているだろうか。ダニエルの祈りの生活は、たまにではなく、苦しい時の神頼みでもなく、「いつものとおり」であった。彼の「いつものとおり」の生き方が、主なる神をダレイオス王にはっきりと証しした。私達も、ダニエルのように、「いつものとおり」祈り、「いつものとおり」礼拝し、「いつものとおり」讃美する。そのような人生を、主なる神と共に歩み続けていこう。どのような状況にあっても、主なる神を信頼し、慌てることなく、恐れることなく、全てを支配されている主なる神の御言葉に従い、真の神を証しする使命を果たしていこう。
 最後に、ダニエルを妬み、陥れようとした人々は、ダニエルに「訴え出る口実を見つけることができなかった」(5節)。そこで、先のような「勅令」を王に出させて、ダニエルを殺そうとした。しかし、ダニエルは獅子の洞窟から生還した。逆に、「ダニエルを陥れようとした者たち」の方が、「妻子もろとも獅子の洞窟に投げ込ま」れ、滅ぼされた(25節)。
 この出来事は、罪のないイエス・キリストの姿を予表している。悪魔は、イエス・キリストを殺して、主なる神のご計画を妨害しようとした。しかし、イエス・キリストは墓の穴から甦られ、逆に悪魔の方が十字架で決定的に敗北した。私達も、悪い者の策略に悪をもって対抗するのではなく、いかなる時も信仰に立って善を行うことを決意しよう。その時、主は御力によって敵に報いて下さる。信仰による真の勝利を勝ち取ろう。

聖書日課 列王記下21章

聖書日課 列王記下21章(新共同訳 旧約pp.615-617)

 21章には、ユダの王マナセについての記述がある。マナセの父は、ヒゼキヤ王、聖書が「その後ユダのすべての王の中で彼のような王はなく、また彼の前にもなかった」と語るほど信仰深い王だった(18章5節)。

 ところが、マナセは、父ヒゼキヤとは全く正反対の道を歩んだ。まるで振り子が一方に大きく振れると、今度は反対側に大きく振れるように。

「マナセは十二歳で王となり、五十五年間エルサレムで王位にあった。その母は名をヘフツィ・バと言った。彼は主がイスラエルの人々の前から追い払われた諸国の民の忌むべき慣習に倣い、主の目に悪とされることを行った」(1~2節)。

 マナセは「父ヒゼキヤが廃した聖なる高台を再建し」た。またイスラエルの王アハブ王が行ったように、バアルの祭壇を築き、アシェラ像を造った」。更に「天の万象の前にひれ伏し、これに仕えた」(3節)。

 このことについて聖書は次のように記している。

「ユダの王マナセはこれらの忌むべき事を行い、かつてアモリ人の行ったすべての事より、更に悪い事を行い、その偶像によってユダにまで罪を犯させた」(11節)。

 かつて異邦人は、彼らの行った罪の故に滅ぼされた。今マナセ王は、その異邦人よりも「更に悪い事を行」ったと言われている。これは一体どういうことだろうか。

 異邦人は偶像を拝み、偶像の神殿を築いてこれに仕えた。それが彼らの罪とされた。ところが、マナセとその民は、真の神の神殿に敢えて偶像を置いて、主の恵みと憐れみを冒瀆し拒んだ。異邦人よりも「更に悪い事を行い」の意味はここにある。つまり、彼らが異邦人よりも沢山罪を犯したというのではなく、異邦人もしなかったような冒瀆の罪を犯したということである。さすがにここまで来ると、後は滅びるほかに道はないように思われる。

 ところが、歴代誌には、このような罪を犯したマナセ王が、アッシリアに捕囚として連れて行かれた後、その地で悔い改め、主に立ち帰って再びエルサレムに帰ることが出来たと記されている(歴代誌下33章12~13章)。「あのマナセが?」と驚かされるが、人間には生きている限り悔い改めの可能性があり、主なる神は最後の最後まで決して見捨てることはないということがここに示されている。

「彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか」(エゼキエル書33章11節)。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
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聖書日課 列王記下20章

聖書日課 列王記下20章(新共同訳 旧約pp.614-615)

 災難は重なる時には重なるものである。アッシリアの脅威に晒されている矢先、ヒゼキヤ王は、突然「死の病にかかった」(1節)。そして、預言者イザヤが主なる神から遣わされて次のように告げた。

「主はこう言われる。『あなたは死ぬことになっていて、命はないのだから、家族に遺言をしなさい』」(1節)。

 その時、ヒゼキヤは必死に祈った。

「ああ、主よ、わたしがまことを尽くし、ひたむきな心をもって御前を歩み、御目にかなう善いことを行ってきたことを思い起こしてください」(3節)。

 すると、主なる神はヒゼキヤの祈りに答え、彼の「寿命を十五年延ばし」て下さった。しかも、それと共に、アッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出す」と約束して下さった。

「わが民の君主ヒゼキヤのもとに戻って言いなさい。『あなたの父祖ダビデの神、主はこう言われる。わたしはあなたの祈りを聞き、涙を見た。見よ、わたしはあなたをいやし、三日目にあなたは主の神殿に上れるだろう。わたしはあなたの寿命を十五年延ばし、アッシリアの王の手からあなたとこの都を救い出す。わたしはわたし自身のために、わが僕ダビデのために、この都を守り抜く』」(5~6節)。

 アッシリアの圧倒的な軍事力の前に屈服し、主への信仰を失いかけていたヒゼキヤ王にとって、死の病は追い討ちをかける危機だったに違いない。しかし、そういう事態に陥ったことで、ヒゼキヤは主なる神への信仰と祈りを回復していった。つまり、ヒゼキヤ王にとって、これらの危機は、信仰にとってのチャンスともなった。

 人生に突然訪れる危機をどう受けとめるかは、私達一人一人に任されている。そこに主なる神の御心と意味を見出して新たな希望をもって立ち上がるか、それとも、自分の不運を恨み、全てを状況や社会や他人のせいにして不平不満の中に生きるか、或いは、状況に振り回されたまま諦めてしまうか、全ては私達自身に任されている。

 何よりも大切なことは、主に立ち帰り、主に信頼し、主と共に生きることである。主なる神は、あらゆる機会を通して、私達がそのように生きるよう導き、語りかけておられる。

「神のもとに立ち帰れ。愛と正義を保ち/常にあなたの神を待ち望め」(ホセア書12章7節)。

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