ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 ヨハネによる福音書1章

聖書日課 ヨハネによる福音書1章(新共同訳 新約pp.163-165)

 ヨハネによる福音書を読むと、他の福音書とは少し雰囲気が違うと感じる人も多いのではないか。マタイとマルコとルカによる福音書は、〈共観福音書〉と呼ばれ、内容も構成も表現も、似ているところが多い。しかし、ヨハネによる福音書には、他の福音書に記されていない出来事や教えが沢山ある。

 また、その表現や雰囲気も随分違うところがある。特に冒頭の部分などは、詩のような、哲学書のような、いかにも霊感された書という雰囲気が漂っている。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。この言は、初めに神と共にあった。万物は言によって成った。成ったもので、言によらずに成ったものは何一つなかった。言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。光は暗闇の中で輝いている。暗闇は光を理解しなかった」(1~5節)。

「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」。これはイエス・キリストが「神」であり「言」であることを意味している。「神」であるイエス・キリストによって世界は創造された。また、「言」であるイエス・キリストによって、目に見えない主なる神が啓示されている

 加えて、「言の内に命があった」と記されている。「命」とは主なる神との交わりである。言葉が私達にとって重要なコミュニケーションの手段であるように、「言」であるイエス・キリストは、主なる神と人の間に交わりをもたらす唯一の仲介者である。主なる神と人の間に平和な永遠の交わりをもたらすイエス・キリストの内にこそ「命」がある

 イエス・キリストは、言であり、神であり、命である。そして最後に、ヨハネは、この「命は人間を照らす光であった」と宣言している。希望の光、真理の光、私達を温かく包み込む主なる神の光……。「光」とは、主なる神の「言」であるイエス・キリストの内にある「命」、即ち主なる神との永遠の平和な交わりである。この主なる神との交わりの中にある時、私達は暗闇の中にあっても「光」に照らされながら、生きることが出来る

「光は暗闇の中で輝いている」。ハレルヤ! アーメン!

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町字内間27-2
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2021年4月4日(日) 週報

2021年4月4日(日) 復活日(イースター)

○礼拝プログラム
招詞 エフェソの信徒への手紙5章14節
讃美 55(今日はひかりを たまいし日なり)
交読 詩編16編1~11節(新共同訳 旧約pp.845-846)
主の祈り
聖書拝読 マタイによる福音書28章1〜10節(新共同訳 新約pp.59-60)
祈り 司式者
讃美 148(すくいのぬしは ハレルヤ)
宣教 「行く手に立つイエス・キリスト
讃美 新生讃美歌243(墓の中にいと低く)
讃美 新生讃美歌414(マラナタ)
聖餐式
祈り
奉献
頌栄 541(父、み子、みたまの)
黙祷
報告

○報告
1. 礼拝に参加される方は、消毒液による手洗いとマスク着用の上、間隔を空けて座り、引き続き新型コロナウィルスの感染予防にご協力をお願い致します。

2. 本日は、イエス・キリストが私達の罪のために十字架にかかって死んで下さり、三日目に復活されたことをお祝いするイースターです。共に主のご復活を祝いつつ、私達も新しい命に生きる者となりましょう。また、礼拝の中で主の十字架を覚えて聖餐式が行われます。主の御前に悔い改めつつ聖餐の恵みに与りましょう。

3. 長期にわたって礼拝をお休みになられている方などに、先週教会からイースターカードを送りました。また、イースターエッグを各自お持ち帰り下さい。

4. 先週3月28日(日)の礼拝後、教会の今後や牧師招聘について話し合う時を持ちました。新年度が前進の年となり、イエス・キリストに結ばれて救われる人が起こされるよう、皆で祈り続けていきましょう。

5. 今月執事選挙を行います。受付に用紙と箱が置かれていますので、投票をお願い致します。開票は4月18日(日)の礼拝後に行います。

6. 定期総会につきましては、日時と議題が決まり次第、告示を行います。昨年度に続き、今回も牧師不在の中で行うことになりますが、今年度取り組むべきことについて、皆で主の御心を祈り求めつつ臨みましょう。また、総会資料として、昨年度の活動報告・決算報告、新年度の活動計画案・予算案を、4月末までにご提出下さい。

7. 教会からの発信の手段として開設したブログは随時更新しています。聖書日課の箇所に関する短いメッセージも載せています。URLは下記の通りです。
https://nschrist1972.hatenablog.com/

*過去の宣教から
「三位一体の神を信じて生きる者は、地上の生涯を送る日々、既に永遠の命にあずかりながら生き、死を迎えても永遠の命が約束されているのです。そのことの証拠はキリスト者が死を迎える時のご本人の平安であり、見送る家族の寂しさ、悲しみと同時に心に浮かぶ神への感謝と喜びと讃美です」(2015年5月31日、ヨハネによる福音書16章12~15節)

○聖書日課
4日(日) ヨハネによる福音書1章
5日(月) ヨハネによる福音書2章
6日(火) ヨハネによる福音書3章
7日(水) ヨハネによる福音書4章
8日(木) ヨハネによる福音書5章
9日(金) ヨハネによる福音書6章
10日(土) ヨハネによる福音書7章

聖書日課 ルカによる福音書24章

聖書日課 ルカによる福音書24章(新共同訳 新約pp.159-162)

 二人の弟子が、エマオという村へ向かって歩きながら(13節)、イエス・キリストの十字架と復活の出来事について話し合っていたところに(14節)、いつの間にか「イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始め」(15節)、二人に尋ねた。「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」(17節)。

 しかし、この時「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」(16節)。自分達がこれまで「望みをかけて」いたイエス・キリストが(21節)、十字架につけられて死んでしまったという余りにも大きな衝撃のため(20節)、イエス・キリストが生きて目の前におられることが分からなかったのだろう。一つの大きな衝撃が、他の一切に対して目を塞いでしまうということは、確かにある。

 また、二人が分からなかったもう一つの理由は、メシアに対する彼らの誤解にあった。当時多くのユダヤ人がメシアを待望していた。しかし、彼らが待ち望んでいたのは、ローマ帝国を打ち破ってイスラエルを解放してくださる」(20節)地上的な王としてのメシアだった。つまり、彼らにとって、メシアが十字架につけられて死ぬことなど有り得なかった。

 イエス・キリストについて話し合い論じ合っていながら、一緒に歩いておられるイエス・キリスト御自身に気付かない。そのようなことは、私達にもあるのではないか。大きなショックや様々な誤解のため、生きて目の前におられるイエス・キリストが分からず、「暗い顔をして立ち止まった」(17節)ままでいるようなことはないだろうか。

 しかし、イエス・キリストは、そのような弟子達をそのまま放っておかれることはなかった。心の鈍い弟子達に近づき、彼らと一緒に歩まれた。しかも、その道中「聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明され」(27節)、エマオでは「共に泊まるために家に入」り(29節)、「一緒に食事の席に着」かれた(29節)。そして、御言葉の学びと交わりを通して、彼らの目は遂に開かれ、「イエスだと分かった」(31節)。

 この原則は今も同じである。聖書の御言葉を学び、共に交わる中で、私達は、心を燃やされ(32節)、目を開かれ、生きて共におられるイエス・キリストを確信することが出来る。今あなたにも、そのようなエマオの体験が必要ではないだろうか。

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聖書日課 ルカによる福音書23章

聖書日課 ルカによる福音書23章(新共同訳 新約pp.157-159)

 23章には、イエス・キリストの十字架の死と葬りの出来事が記されている。これについては、4つの福音書が全て記している。イエス・キリストは、確かに死に、そして墓の中に葬られた。それは、私達の罪の代価が確かに支払われたこと、私達が確かに赦され、救われ、解放されたことを表している。

 ところで、イエス・キリストの遺体を葬ったのは、12人の弟子達でも、最後までイエス・キリストの身近にいた婦人達でもなく、「ヨセフという議員」だった。この人は、「善良な正しい人」で、「同僚の決議や行動には同意」せず、神の国を待ち望んでいた」と記されているように(50~51節)、イエス・キリストに深く信頼を寄せる弟子の一人だった。

 ヨセフは、イエス・キリストの遺体を引き取るために、総督ピラトのところに行って願い出た(52節)。議員という立場にあったとはいえ、死刑に処せられた人物の遺体を引き取ることは、自分もその仲間であると表明する行為である。それは相当の勇気と決断が要ったに違いない。しかし、人の真実は、こういう危急の事態の中でこそ現される。

 一方、12人の弟子達は、十字架の前に皆逃げ去ってしまった。彼らの中には、変えられるべき弱さがまだあった。それを自覚することのなかったペトロは、「主よ、御一緒になら、牢に入って死んでもよいと覚悟しております」(22章33節)と豪語した。他の弟子達も同じだった(マタイによる福音書26章35節)。彼らには、自分の弱さを認める謙遜と、主に全てを委ねて生きる覚悟が必要だった。そして、そのためには、十字架による躓きと挫折の経験が必要だった。

 勿論それは、痛みと悲しみと深い苦悩の経験であった。しかし、彼らはそのどん底で、復活の主と再び出会った。それ以来、彼らはもう二度とイエス・キリストを裏切ることも、離れることもない人生を歩む者となった

「神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています」(ローマの信徒への手紙8章28節)。この約束は弟子達にとって、そして私達にとって真実そのものである。

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聖書日課 ルカによる福音書22章

聖書日課 ルカによる福音書22章(新共同訳 新約pp.153-156)

 22章は、過越の食事、ゲツセマネでの祈り、イエス・キリストの逮捕、最高法院での裁判と続く。そしてこの章は、十字架直前の緊張感と、どんよりとした重苦しい雰囲気の漂う章でもある。

 祭司長や律法学者は、イエス・キリストを殺すにはどうしたらよいかと考えていた(2節)。そのような時、サタンが十二弟子の一人イスカリオテのユダの中に入った(3節)。ユダは、イエス・キリストを祭司長に引き渡す相談を持ちかけ(4節)、「群衆がいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた」(6節)。

 そして、まさにその夜、彼らにとっての「良い機会」が訪れた。

 オリーブ山で夜を徹して祈っておられたイエス・キリストのもとに、ユダが群衆を引き連れてやって来た(47節)。イエス・キリストは逮捕され、その夜のうちに裁判にかけられ、翌朝には十字架にかけられてしまった。それはまさに「闇が力を振るっている」時であった(53節)。

 しかし、それはあくまでも目に見えるところの評価であることを、私達は忘れてはならない。確かに目に見えるところは、闇が力を振るい、神の子が悪魔に殺されようとしていた。しかし、これらのことは全て主なる神の御心と御計画の下に置かれていたイエス・キリストはそれをご存知であった。そして、父なる神の御心がなるようにと祈り、それを受けとめながら、ご自分の使命から逃げることなく敢然と立ち向かって行った

 私達の人生にも、「闇が力を振るっている」としか思えないような出来事が起こる。しかし、その時、私達ははっきり覚えていよう。たとえ何が起こっても、主は私達と共におられるということを。そして、主は、イエス・キリストを愛し信頼する者と共におられ、必ず御心に従って栄光の御業を行って下さるということを。

「わたしは言う。『闇の中でも主はわたしを見ておられる。夜も光がわたしを照らし出す。』闇もあなたに比べれば闇とは言えない。夜も昼も共に光を放ち/闇も、光も、変わるところがない」(詩編139編11~12節)。

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聖書日課 ルカによる福音書21章

聖書日課 ルカによる福音書21章(新共同訳 新約pp.151-153)

「イエスは目を上げて、金持ちたちが賽銭箱に献金を入れるのを見ておられた。そして、ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。『確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。あの金持ちたちは皆、有り余る中から献金したが、この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである』」(1~4節)。

 こういう箇所を読むと、「神様は全財産を献金せよと言っておられるのだろうか?」と恐れを抱く人もいるかも知れない。しかし、イエス・キリストは、ここでそういうことを教えようとされたのだろうか。

 そもそも、私達は何のために主なる神に献げるのか。まず確認すべきことは、私達が献げ物をするのは、救われるためや罪が赦されるためではないということである。そのためにこそ、イエス・キリストは、私達の身代わりとなって十字架にかかり、尊い命を献げて下さったからである。

 そして、キリスト者の献げ物の動機は、そこから生まれる。つまり、このような者のために独り子の命をも献げて下さった主なる神の愛と恵みに、心から感謝し、喜び、そして、真の愛をもって応えること、それが献金ではないか。「この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れた」イエス・キリストが言われたのは、このような痛みをもって献げる真の愛を教えるためであった。

 また、貧しいやもめが全財産を献げた行為には、主なる神への感謝や愛と共に、全幅の信頼があった。彼女は、主なる神が必要の全てを満たして下さると信じ、全身全霊で主なる神を信頼して生きていこうと決心していたのだろう。つまり、このやもめの献金は、主なる神への献身を意味していた。

 もし私達の献金にそのような感謝も愛も全くないとしたら、献金はどこまでも義務や見栄や仕方なしのものとなってしまうだろう。どれほど大金であっても、そのような献げ物を、果たして主なる神は喜ばれるだろうか。献金は金額の大きさで計れない。献金は、自分のために、独り子の命という大きな犠牲を払って下さった主なる神に対する信仰と愛の行為である。主なる神への感謝が湧き上がり、痛みを伴うほどに主なる神を愛し、献げていくこと、それが真の献げ物ではないか。

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聖書日課 ルカによる福音書20章

聖書日課 ルカによる福音書20章(新共同訳 新約pp.148-151)

 律法学者とは、文字通り聖書の律法に通じる学者のことであるが、当時イスラエルの社会では、宗教的な権威であると共に政治的な影響力を持つ人々でもあった。イエス・キリストは、そのような立場にある人々を名指しで非難した。

「律法学者に気をつけなさい。彼らは長い衣をまとって歩き回りたがり、また、広場で挨拶されること、会堂では上席、宴会では上座に座ることを好む。そして、やもめの家を食い物にし、見せかけの長い祈りをする。このような者たちは、人一倍厳しい裁きを受けることになる」(46~47節)。

 当然、律法学者をはじめとする宗教的・政治的指導者は、一斉にイエス・キリストを攻撃し、論争を仕掛けてきた。そして、遂にイエス・キリストを十字架にかけて殺してしまった。

 権力者を非難すれば攻撃され殺される。これは世の常と言える現実である。だから、人々は公に権力者を批判することを避ける。しかし、イエス・キリストはそうではなかった。それどころか、歯に衣着せぬ激しさで、時の権力者を批判した。

 一方、律法学者をはじめとする指導者はどうであったかと言えば、彼らは〈イエス憎し〉と論争や攻撃を次々に仕掛けてきた。しかし、多くの民衆がイエス・キリストを支持していたため、イエス・キリストに手を下すことが出来なかった。つまり、彼らは「民衆を恐れた」(19節)のである。

 彼らが拠り頼んでいたのは、主なる神ではなく、宗教的・政治的権威であった。そして彼らは、人の目を恐れ、人に気に入られることを求めて生きていた。そこにイエス・キリストとの決定的な違いがあった。イエス・キリストは、天におられる父なる神を畏れ、天の父に常に目を向け、聞き従って生き続けた。父なる神を生き方の中心とし、父なる神に喜ばれる道をまっすぐに歩まれた

 さて、私達はどうだろうか。私達は、常日頃何を恐れ、何に目を向けて生きているだろうか。律法学者のように、人の目を恐れ、真理から離れるような生き方をしてはいないだろうか。イエス・キリストのように、恐れに振り回されず、真に恐るべき方を畏れ敬うことが、生きる道であり、終わりの日に救われる生き方である

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聖書日課 ルカによる福音書18章

聖書日課 ルカによる福音書18章(新共同訳 新約pp.143-146)

「神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」(11~12節)。

 これは、イエス・キリストが語られたたとえの中に登場するファリサイ派の人の祈りである。まるで就職試験の自己アピールのように、自分の正しさ、自分の頑張りを主なる神に向かって主張している。勿論、奪い取る者でないことも、不正な者でないことも、姦通を犯す者でないことも、断食も十分の一の献げ物も善いことばかりである。しかし、やはりこの祈りは、明らかに何かが間違っている。

 それは、この人が自分の罪に全く気付いていない、或いは認めていないことから来る間違いである。イエス・キリストも言われたように、この人は、「自分は正しい人間だとうぬぼれて」(9節)いたのである。

 そもそも、他の人と比較して、自分は正しいと思うこと自体が間違っている。その上、「他人を見下している」(9節)とすれば、それは自分を主なる神の位置に置いて人を裁く傲慢の罪を犯していることになる。大切なことは、自分自身が主なる神の御前にどうであるかである。

 仕事にしても、奉仕にしても、頑張っている人は、得てしてこういう傲慢に陥る危険があることを覚えていたい。ファリサイ派の人々というのは、まさしくそういう人々だった。私達は寧ろ、元気に仕事が出来ること、心を込めて主なる神に仕えさせていただけることを、感謝する者でありたい。イエス・キリストも、弟子としてのそういうあり方を教えている。

「命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい」(ルカによる福音書17章9~10節)。

 実は、このような謙遜こそが、継続的な働きの力を生み出していく。それは、このたとえの後半に登場する徴税人の祈りと、それに対するイエス・キリストの評価からも分かる。

「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』言っておくが、義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない。だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」(13~14節)。

「へりくだる者は高められる」…この真理を心に深く刻み、生きる者でありたい。

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聖書日課 ルカによる福音書17章

聖書日課 ルカによる福音書17章(新共同訳 新約pp.142-143)

 エルサレムへ上る途中(11節)、イエス・キリストは、サマリアガリラヤの間の或る村に入られた(12節)。すると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま(12節)、声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と叫んだ(13節)。律法によると、この病気に罹った人は、人々の近くに行くことが禁じられていた。そのため、イエス・キリストの傍まで来ることが出来なかった。

 イエス・キリストは、この人々を御覧になると、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた(14節)。祭司は、この病気が癒されたかどうかを判別し、もし癒されていれば、「あなたは清い」と宣告し、社会復帰の許可を与える役目を担っていた。そのため、この十人の人は、イエス・キリストの言葉を聞いて、期待に胸を膨らませながら祭司のところに向かって行ったに違いない。そして、その途中で全員が癒され清くされた(14節)。

 すると、その中の一人は、自分が癒されたのを知って、大声で主なる神を讃美しながら戻って来た(15節)。そして、イエス・キリストの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリア人だった(16節)。この時、イエス・キリストは次のように言われた。

「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか」(17~18節)。

 この時、イエス・キリストは、癒された人が、主なる神を讃美し感謝するために戻って来たことを喜びながらも、戻って来ることのなかった残りの9人のことを思い、とても悲しかったに違いない。

 勿論、全員が癒されたのは素晴らしいことであった。しかし、体の癒しよりも更に大切なことがあった。それは、罪が赦され、イエス・キリストとの交わりの中に入り、永遠の命と救いをいただくことである。何故なら、イエス・キリストは、そのためにこの地上に来られ、私達の身代わりとなって十字架にかかって下さったのだから。

 結局、この9人は、癒しを求めていただけで、罪からの救いや神の国を求めていたわけではなかった。そのため、救いを受けることはなかった。それは、十字架にかかるためにエルサレムに向かっておられたイエス・キリストにとって、深い悲しみを覚えることであっただろう。

 しかし、主なる神を讃美しながら戻って来た人を見て、イエス・キリストは喜びつつ言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」(19節)。

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聖書日課 ルカによる福音書16章

聖書日課 ルカによる福音書16章(新共同訳 新約pp.140-142)

 イエス・キリストは「金持ちとラザロ」と呼ばれる物語を語られた。この金持ちは、生前「いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らして」いた(19節)。一方、ラザロは、「できものだらけの貧しい人」で、金持ちの門前に横たわり、「その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた」(20節)。

 やがて2人はこの世の生活を終え、ラザロは「天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれ」た(22節)。ところが、「金持ちは陰府でさいなまれ」た(23節)。そして、彼が「目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた」(23節)。金持ちの男は大声で「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます」(24節)と叫んだ。それに対し、アブラハムは次のように答えた。

「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない」(25~26節)。

 勿論、この話は、金持ちは罪で、滅び、貧しい人は善で、救われるということを教えているのではない。地上の生涯において金持ちであろうと貧乏であろうと、天においては、私達が地上で何を信じ、何のために生きたかが問われることを教えている。イエス・キリストは言われた。

「どんな召し使いも二人の主人に仕えることはできない。一方を憎んで他方を愛するか、一方に親しんで他方を軽んじるか、どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(13節)。

 この金持ちは、財産に拠り頼み、富に仕えて生きていたため、隣人を憐れむ心も、永遠の希望も持っていなかった。一方、ラザロは、貧しさの中で、なお主なる神への信仰と永遠の希望を抱いて生きていた。それが死後の2人のあり方を全く違ったものとした。

 もう一度確認しておきたい。この地上で金持ちか貧乏かは全く関係ない。主なる神を信じ、主なる神に仕えて生きているか、天においてはそれこそが最も大切なことである。このことが私達の永遠の世界を二分する。

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