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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 ルカによる福音書24章

聖書日課 ルカによる福音書24章(新共同訳 新約pp.159-162)

 二人の弟子が、エマオという村へ向かって歩きながら(13節)、イエス・キリストの十字架と復活の出来事について話し合っていたところに(14節)、いつの間にか「イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始め」(15節)、二人に尋ねた。「歩きながら、やり取りしているその話は何のことですか」(17節)。

 しかし、この時「二人の目は遮られていて、イエスだとは分からなかった」(16節)。自分達がこれまで「望みをかけて」いたイエス・キリストが(21節)、十字架につけられて死んでしまったという余りにも大きな衝撃のため(20節)、イエス・キリストが生きて目の前におられることが分からなかったのだろう。一つの大きな衝撃が、他の一切に対して目を塞いでしまうということは、確かにある。

 また、二人が分からなかったもう一つの理由は、メシアに対する彼らの誤解にあった。当時多くのユダヤ人がメシアを待望していた。しかし、彼らが待ち望んでいたのは、ローマ帝国を打ち破ってイスラエルを解放してくださる」(20節)地上的な王としてのメシアだった。つまり、彼らにとって、メシアが十字架につけられて死ぬことなど有り得なかった。

 イエス・キリストについて話し合い論じ合っていながら、一緒に歩いておられるイエス・キリスト御自身に気付かない。そのようなことは、私達にもあるのではないか。大きなショックや様々な誤解のため、生きて目の前におられるイエス・キリストが分からず、「暗い顔をして立ち止まった」(17節)ままでいるようなことはないだろうか。

 しかし、イエス・キリストは、そのような弟子達をそのまま放っておかれることはなかった。心の鈍い弟子達に近づき、彼らと一緒に歩まれた。しかも、その道中「聖書全体にわたり、御自分について書かれていることを説明され」(27節)、エマオでは「共に泊まるために家に入」り(29節)、「一緒に食事の席に着」かれた(29節)。そして、御言葉の学びと交わりを通して、彼らの目は遂に開かれ、「イエスだと分かった」(31節)。

 この原則は今も同じである。聖書の御言葉を学び、共に交わる中で、私達は、心を燃やされ(32節)、目を開かれ、生きて共におられるイエス・キリストを確信することが出来る。今あなたにも、そのようなエマオの体験が必要ではないだろうか。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町字内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
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