ようこそ、西原新生バプテスト教会のブログへ!

沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

2021年3月28日(日) 週報

2021年3月28日(日) 受難節第6主日(棕櫚の主日)

○礼拝プログラム
招詞 イザヤ書42章1節
讃美 67(よろずのもの とわにしらす)
交読 詩編22編1~32節(新共同訳 旧約pp.852-854)
主の祈り
聖書拝読 マタイによる福音書27章45〜56節(新共同訳 新約p.58)
祈り 司式者
讃美 121(馬槽のなかに)
宣教 「十字架上の神の子」
讃美 第二編177(あなたも見ていたのか)
祈り
奉献
頌栄 540(みめぐみあふるる)
黙祷
報告

○報告
1. 礼拝に参加される方は、消毒液による手洗いとマスク着用の上、間隔を空けて座り、引き続き新型コロナウィルスの感染予防にご協力をお願い致します。

2. 本日はイエス・キリストエルサレムに入城された棕櫚の主日で、今週から受難週に入ります。4月2日(金)はイエス・キリストが十字架で死なれた受難日です。イエス・キリストのご受難を覚え、深く祈りつつ十字架の恵みに与って参りましょう。

3. 次週4月4日(日)はイースター(復活日)です。知人友人をお誘い合わせの上、ご参加下さり、主の復活の恵みに与りましょう。なお、当日はイースターエッグを各自お持ち帰り下さい。

4. 長期にわたって礼拝をお休みになられている方などに、教会からイースターカードを送ります。礼拝後一言メッセージをお寄せ下さい。

5. 本日礼拝後、教会の今後や牧師招聘について話し合う時を持ちます。大変重要な課題ですので、当日お残りいただきますようお願い致します。終了は13:00の予定です。

6. 4月に執事選挙を行います。受付に用紙と箱を置いていますので、投票をお願い致します。開票は4月18日(日)の礼拝後に行います。

7. 定期総会につきましては、日時と議題が決まり次第、告示を行います。昨年度に続き、今回も牧師不在の中で行うことになりますが、次年度取り組むべきことについて、皆で主の御心を祈り求めつつ臨みましょう。また、総会資料として、今年度の活動報告・決算報告、次年度の活動計画案・予算案を、4月末までにご提出下さい。

8. 教会からの発信の手段として開設したブログは随時更新しています。聖書日課の箇所に関する短いメッセージも載せています。URLは下記の通りです。
https://nschrist1972.hatenablog.com/

*過去の宣教から
「大事なことは私達が日々、キリストに繋がり続けること、イエスから離れないことです。そのために生活の中に祈りの時を確保しましょう。礼拝出席に励みましょう。互いに励まし合いましょう」(2011年6月26日、ヨハネによる福音書15章1~5節)

○聖書日課
28日(日) ルカによる福音書18章
29日(月) ルカによる福音書19章
30日(火) ルカによる福音書20章
31日(水) ルカによる福音書21章
1日(木) ルカによる福音書22章
2日(金) ルカによる福音書23章
3日(土) ルカによる福音書24章

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町字内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
https://nschrist1972.hatenablog.com/
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聖書日課 ルカによる福音書15章

聖書日課 ルカによる福音書15章(新共同訳 新約pp.138-140)

「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(7節)。

 なくしていた物が見つかるというのは、嬉しいものである。まして、それが物ではなく、あなたが愛する人であったら、その喜びはどんなに大きなものだろうか。

 15章では、そういう喜びが3つのたとえを通して教えられている。「見失った羊」のたとえ(1~7節)、「無くした銀貨」のたとえ(8~10節)、「放蕩息子」のたとえ(11~32節)は皆、主なる神から離れていた罪人が、悔い改めて主なる神のもとに帰って来た時の喜びについて語っている。それは天における喜びである。即ち、主なる神の天使達の喜びであり、父なる神の喜びである。

 ところが、それを少しも喜べない人がいた。それが、ファリサイ派の人々や律法学者達、つまり、当時の宗教指導者である。彼らは、徴税人や罪人が、話を聞こうとしてイエス・キリストに近寄って来たのを見て(1節)、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言い出した(2節)。

 何故だろうか? どうして彼らは、それを不満に思ったのだろうか? 彼らは、自分は正しく生きている、罪など犯さず頑張って生きていると思っていたからである。それ故、罪人が裁かれず、イエス・キリストと一緒に喜びながら食事をしている姿を見て、腹立たしく思ったのである。

 彼らはまさに、「放蕩息子」の兄そのものであった。弟が放蕩の果てに身も心もボロボロになってようやく帰って来た時、父親は弟を大喜びで迎え入れて祝宴を始めた。しかし、兄はそのような父親を見て、怒りをぶつけた。

「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」(29~30節)。

 この時、兄の心は、真面目に頑張ってきた自分こそ宴会を開いてもらって当然だという高慢な思いと、弟に対する軽蔑の思いで一杯になっていた。遠く離れていた弟は帰って来た。しかし、近くにいた兄は、父親の心から遠く離れていた。謙遜な心と愛する心、それが何よりも大切である。

「すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか』」(31~32節)。

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聖書日課 ルカによる福音書14章

聖書日課 ルカによる福音書14章(新共同訳 新約pp.136-138)

「大勢の群衆が一緒について来たが、イエスは振り向いて言われた」(25節)。

 公生涯の3年間、イエス・キリストの周りには、いつも大勢の人々が群がるように取り囲んでいた。しかし、その多くは、イエス・キリストに癒しや奇跡を求めて来た人々であり、また、メシアがローマ帝国を打ち破って、地上に王国を築くことを期待して集まって来た人々であった。

 つまり、彼らは、自分の願いを叶えてもらうためにイエス・キリストのところにやって来ただけであり、イエス・キリストの弟子となるために来たのではなかった。勿論、病気の癒しや奇跡を求めることが間違っているというわけではない。しかし、それだけではイエス・キリストの弟子ではない。では、イエス・キリストの弟子とはいかなる者だろうか。

「もし、だれかがわたしのもとに来るとしても、父、母、妻、子供、兄弟、姉妹を、更に自分の命であろうとも、これを憎まないなら、わたしの弟子ではありえない」(26節)。

 これは、感情的な憎しみのことを言っているのではない。優先順位が教えられているのである。つまり、イエス・キリストの弟子とは、家族や自分の命にも優って、イエス・キリストに聞き従うことを第一にして生きる者である。イエス・キリストを信じるというのは、〈献身する〉ことであると、イエス・キリストははっきり人々に教えられたのである。

「自分の十字架を背負ってついて来る者でなければ、だれであれ、わたしの弟子ではありえない」(27節)。

「自分の十字架を背負う」とは、イエス・キリストと共に死ぬことを意味する。イエス・キリストがただ一度罪に対して死なれたように、イエス・キリストの弟子も、古い自己中心の自分がイエス・キリストと共に十字架につけられた。また、イエス・キリストが主なる神に対して生きておられるように、イエス・キリストの弟子も、イエス・キリストに結ばれて、主なる神に対して生きている(ローマの信徒への手紙6章1~11節)。

「えっー! キリストの弟子になるって、そんなに大変なの?」と驚きと躊躇を覚える人もいるだろう。だからこそ、イエス・キリストは、イエス・キリストの弟子としての道を選ぶべきかどうか、よく考え、慎重に計算した上で決心するようにと、2つのたとえを用いて教えられた(28~32節)。

 そして、最後にイエス・キリストは次のように言われた。

「だから、同じように、自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない」(33節)。

 イエス・キリストの弟子は、自分の持ち物や財産に満足したり、縛られるような者ではない。自分の全ては主がお与え下さったものであることを喜び、感謝し、主に拠り頼んで、生き生きと、自由に、積極的に生きる者、それがイエス・キリストの弟子である。

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聖書日課 ルカによる福音書13章

聖書日課 ルカによる福音書13章(新共同訳 新約pp.134-136)

 或る日、神殿で動物のいけにえを献げていたガリラヤの愛国主義者達が、ローマ総督ピラトの軍隊に殺害され、その血がいけにえに献げた動物の血と混じるという事件が起こった(1節)。人々は、殺されたガリラヤ人について、彼らが罪深い者だったから、酷い目に遭ったに違いないと噂していたようである(2節)。

 しかし、この時イエス・キリストは、「決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(3節)と言われた。更に、主はエルサレムで起こった事件を取り上げて、次のように語られた。

「また、シロアムの塔が倒れて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいたほかのどの人々よりも、罪深い者だったと思うのか。決してそうではない。言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」(4~5節)

 塔が倒壊した時にその場に居て災難に遭った人達は、他の人よりも罪深い者だったからそうなったのだろうか。では、そのような噂をしていた人々の考えのどこが間違っていたのだろうか。

 第一に、その人々にとってこの事件はどこまでも他人事であり、彼らはそこに何の痛みも憐れみの心も持たなかった。これは現代の私達も陥りがちな問題である。毎日耳に入って来る事件や出来事に対し、私達はどれだけ痛みや憐れみの思いを持っているだろうか。私達にとっても、その多くはやはり他人事となっているのではないか。

 第二に、その人々には更に大きな問題があった。それは、災難に遭った人々は罪深かったからそうなったけれども、自分達はそれほどでもないから大丈夫だと思っていたことである。

 私達は時々「自分はあの人ほど悪くはない」と思うことがある。しかし、どんなに小さくても罪は罪である。また、罪は他の人と比べるものではなく、主なる神の御前に悔い改めて赦しを受けるべきものである。そうでなければ、私達の罪はそのまま残されてしまう。「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる」。これは、私達の罪を赦すために十字架にかかられたイエス・キリストの心からの呼びかけである。

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聖書日課 ルカによる福音書12章

聖書日課 ルカによる福音書12章(新共同訳 新約pp.131-134)

 私達は、いつも何かを恐れながら生きているのではないか。アダムとエバが善悪の知識の木の果実を取って食べた時から、人は人の目を恐れて自分を隠し、また主なる神の目を恐れて隠れるようになった(創世記3章)。

 だからこそ、聖書には、旧約でも新約でも、恐れについての教えが実に沢山書かれている。一説によると、「恐れるな!」という励ましが、365回出てくる。それは、私達が1年中、毎日毎日「恐れるな!」という励ましを必要としているからに違いない。

 イエス・キリストも、弟子達に、何度も「恐れるな!」と語られた。

「友人であるあなたがたに言っておく。体を殺しても、その後、それ以上何もできない者どもを恐れてはならない」(4節)。

 これは、人を恐れてはならないということである。また、目に見えるものを恐れてはならないという意味でもある。

 私達は日頃、他人の目を恐れたり、目に見える状況や問題を恐れて、不安に陥ったり慌ててふためくことが何と多いことだろう。それは、本当に恐るべき方を私達が知らないからである、とイエス・キリストは言われた。

「だれを恐れるべきか、教えよう。それは、殺した後で、地獄に投げ込む権威を持っている方だ。そうだ。言っておくが、この方を恐れなさい」(5節)。

 これは、限りある地上の命と人生だけに縛られてしまうのではなく、永遠の命と天の御国に視野を広げて生きよということである。そして、私達の目を、目に見える地上のものから離し、目に見えない天の父なる神に向け、信頼を寄せて生きよということである。

 何故なら、父なる神は、私達一人一人の髪の毛までも一本残らず数えておられるほど、私達を深く愛し、全てを知っておられる方だからである。それ故、私達が真に恐るべき方を知るなら、真の平安と生きる勇気が湧き上がる

「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない。それどころか、あなたがたの髪の毛までも一本残らず数えられている。恐れるな。あなたがたは、たくさんの雀よりもはるかにまさっている」(6~7節)。

2021年3月21日(日) 週報

2021年3月21日(日) 受難節第5主日

○礼拝プログラム
招詞 ヨハネによる福音書3章16節
讃美 66(聖なる、聖なる、聖なるかな)
交読 詩編42編1~12節(新共同訳 旧約pp.875-876)
主の祈り
聖書拝読 マタイによる福音書26章36〜46節(新共同訳 新約pp.53-54)
祈り 司式者
讃美 316(主よこころみ受くるおり)
宣教 「共に目を覚まして」
讃美 532(ひとたびは死にし身も)
祈り
奉献
頌栄 539(あめつちこぞりて)
黙祷
報告

○報告
1. 礼拝に参加される方は、消毒液による手洗いとマスク着用の上、間隔を空けて座り、引き続き新型コロナウィルスの感染予防にご協力をお願い致します。

2. 現在受難節(レント)の時を過ごしています。次週3月28日(日)より受難週に入り、4月4日(日)がイースター(復活日)です。イエス・キリストのご苦難と死を深く覚えて祈りつつ、十字架の恵みに与って参りましょう。

3. 4月に執事選挙を行うことになりました。会計関係につきましては、現在引き継ぎが進められています。

4. 定期総会につきましては、日時・議題が決まり次第、告示を行います。昨年度に続き、今回も牧師不在の中で行うことになりますが、次年度取り組むべきことについて、皆で主の御心を祈り求めつつ臨みましょう。

5. 3月28日(日)の礼拝後、教会の今後や牧師招聘について話し合う時を持ちます。重要な課題ですので、当日お残りいただきますようお願い致します。終了は最長で13:00の予定です。

6. 教会からの発信の手段として開設したブログは随時更新しています。聖書日課の箇所に関する短いメッセージも載せています。URLは下記の通りです。
https://nschrist1972.hatenablog.com/

○聖書日課
21日(日) ルカによる福音書11章
22日(月) ルカによる福音書12章
23日(火) ルカによる福音書13章
24日(水) ルカによる福音書14章
25日(木) ルカによる福音書15章
26日(金) ルカによる福音書16章
27日(土) ルカによる福音書17章

聖書日課 ルカによる福音書11章

聖書日課 ルカによる福音書11章(新共同訳 新約pp.127-130)

 イエス・キリストの宣教活動というと、多くの病人を癒し、大きな奇跡を行い、沢山の教えを宣べ伝えたことに目が向かいがちである。しかし、もう一つ、決して忘れてならないことがある。それは〈祈り〉である。

 イエス・キリストは、食事をする暇もないほど忙しい奉仕の日々の中にあっても(いや、あったからこそ)、夜明け前に独り静かに祈りの時を持ち続けられた。そういうイエス・キリストの姿を身近に見ていた弟子達は、イエス・キリストの御力の秘訣が祈りにあることを、いつしか悟るようになったのではないか。

 次から次にやって来る病む人や貧しい人、教えを聞こうと集まって来る群衆、常に疑いの目と敵対心をもって論争を仕掛けてくる律法学者やファリサイ派の人々、そして、弱さや欠点を持つ弟子達…そのような人々に囲まれながら、イエス・キリストはいかにして自分の使命を見失うことなく、果たし続けていくことが出来たのだろうか。

「そりゃ、イエス様は神の子だから、何だって出来るでしょう!」と思う人もいるかも知れない。確かにイエス・キリストは主なる神の独り子であられる。しかし、地上にいる間は、人間としての弱さと限界の中に生きられた。だからこそ、イエス・キリストは、祈られたのではないか。つまり、祈りはイエス・キリストの力の源泉であり、知恵の源であり、真の休み場であった。また、イエス・キリストの祈りは、弱さと限界の中に生きる私達にとっての模範でありモデルである

 それ故、私達も、弟子の一人が「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」と願ったように(1節)、日々主に求め続けていくことが必要ではないか。このような求めによって、祈ることを学び続けていくことが大切ではないか。

 この時イエス・キリストが教えて下さった祈りが「主の祈り」(2~4節)であるが、イエス・キリストは、それに続けてこう言われた。

「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる」(9~10節)。

 この約束を信じて、今日も求めたいと思う。「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」。

イースター礼拝のご案内

イースター礼拝のご案内

2021年4月4日(日) 午前10時30分~

Christ is Risen!

 イースターは、イエス・キリストが、死からよみがえられたことを記念する日です。

 何故世界中でイースターをお祝いするのでしょうか。それは、イエス・キリストが全ての人の罪のために十字架で死なれただけではなく、三日目に死者の中から復活されたからです。イエス・キリストは復活によって、人間の死の問題を解決して下さいました。イエス・キリストは死からよみがえり、死に勝利されましたので、ご自分を信じる者をも、死に打ち勝つ者として下さいます。イエス・キリストはこう言われました。

「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネによる福音書11章25節)。

 イースター(イエス・キリストの復活祭)に合わせて、礼拝が行われます。教会が初めての方でも、クリスチャンでない方でも、どなたでも心より歓迎いたします。ご一緒にイエス・キリストの復活をお祝いいたしましょう。

すべての礼拝は無料です
*聖書・讃美歌は備え付けています。
*マスク着用・換気・消毒など、新型コロナウィルス感染予防のための対策を行っています。

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聖書日課 ルカによる福音書10章

聖書日課 ルカによる福音書10章(新共同訳 新約pp.125-127)

 エルサレムの南東約3kmの所に、ベタニアという小さな村があった。そこには、ラザロという兄弟、マルタとマリアという二人の姉妹が住む家があった。イエス・キリストは、時折その家を訪れて休息をとられた。

 或る日、イエス・キリストがいつものようにこの家を訪問されると(38節)、姉のマルタはイエス・キリストへのもてなしのために、色々と気忙しく動き回っていた(40節)。ところが、妹のマリアは、イエス・キリストの足もとに座って、その話に聞き入るばかりで、全く手伝おうとしなかった(39節)。

 するとマルタは、全然手伝ってくれない妹マリアに次第に苛立ちを募らせ、遂にイエス・キリストに向かってこう言ってしまった。

「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」(40節)。

 私達も同じようなことがないだろうか。折角イエス・キリストが私達と共におられるのに、仕事や趣味で頭が一杯になって、つい苛々してしまっているようなことが。そして、自分の周りにいる人を裁き、「どうして神様は助けてくれないのだ!」と主なる神にまで文句を言ってしまっていることが。

 この時、イエス・キリストはマルタに言われた。

「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない」(41~42節)。

 真に必要なのは、イエス・キリストの御前に座り、その御声に静かに、じっと聞き入ること、この一つだけであるとイエス・キリストは言われた。

 私達も、2番目でも3番目でも良いもので頭が一杯になり、苛々したり、裁いたり、文句を言ったりしてはいないだろうか。必要なことはただ一つ、イエス・キリストの足もとに座って、御声に聞き入ることである。心の平安はそこから湧き上がる。人生の中心軸はそこにある。

聖書日課 ルカによる福音書9章

聖書日課 ルカによる福音書9章(新共同訳 新約pp.121-125)

「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」(51節)

 9章は、本書の節目の章の一つである。ペトロの信仰告白(20節)を聞いたイエス・キリストが、3年に及ぶガリラヤでの宣教を終え、いよいよエルサレム(=十字架)に向かって旅立たれるからである。

 マタイやマルコに比べると、ルカはこのエルサレムへの旅について随分多くの出来事を記している(9章~19章)。それは、十字架と復活をはっきりと意識した上での、弟子達に対する最後の教えと訓練の時であった。ルカはそれについて多くの貴重な情報を残してくれている。

 ペトロの信仰告白を受けたイエス・キリストは、ご自分の十字架と復活についてはっきりと教え始められた(21~23節)。そして、山の上で弟子達にご自分の栄光の姿を現された(28~36節)。このようなことは、十字架に向けて、弟子達に信仰の確信を得させるためであったに違いない。

 ところが、一同が山から下りると、様々な問題が起こっていた。悪霊に取りつかれた子を癒すことが出来ない(37~43節)。自分達のうち誰が一番偉いかを議論する(46~48節)。更に、自分達の仲間でない者が、イエス・キリストの名前を使って悪霊を追い出しているのを見て止めさせようとしたり(49~50節)、サマリアの人々が自分達を歓迎しないことに腹を立てて滅ぼそうとする(51~56節)など、弟子達の弱さや傲慢さ、真理に対する理解の不足などの問題が次から次に露呈してきたのである。

 しかし、イエス・キリストは、そのような弟子達を決して見捨てることはなかった。イエス・キリストは、なお一層忍耐強く、彼らを教え育み続けた。その教えの一つが、57節以降の「弟子の覚悟」と呼ばれるものである。

「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人に(57節)、イエス・キリストは、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(58節)と、真に従う覚悟を確かめられた。また、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言う人には(59節)、「死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。あなたは行って、神の国を言い広めなさい」と、神の国に生きる上での優先順位を確認させた(60節)。更に、「主よ、あなたに従います。しかし、まず家族にいとまごいに行かせてください」と言う人には(61節)、「鋤に手をかけてから後ろを顧みる者は、神の国にふさわしくない」と言われ、前を見ながら後ろも見て歩くという二股をかけた生き方を戒められた(62節)。

 イエス・キリストに従うことは何ものにも優先する大事であり、従うことの価値は高く、従うことの祝福もまた大きい