聖書日課 マタイによる福音書9章(新共同訳 新約pp.15-17)
9章にも、イエス・キリストの癒しの出来事が沢山記されている。しかし、8章との明らかな違いは、そこにイエス・キリストの言動を批判し、反対する人々が現れたことである。イエス・キリストの評判が瞬く間に広がっていく中で、恐れを覚えたり、面白く思わない人々が起こってきたのである。それが「律法学者」や「ファリサイ派」と呼ばれる人々である。彼らは、当時のユダヤ社会における宗教的指導者であり、旧約聖書に精通し、自分達は主なる神の掟を守る正しい者だという強い自負心をもって生きていた。
自負心は人を高ぶらせ、他の人を簡単に裁いたり批判したりさせる。彼らは、イエス・キリストの教えが自分達の考えと違うと言っては批判し、イエス・キリストや弟子達のやり方が自分達と違うと言っては疑問を投げかけてきた。
中風の病に苦しむ人がイエス・キリストの御前に連れて来られた時、イエス・キリストは、「子よ、元気を出しなさい。あなたの罪は赦される」と言って、その人を励ました(2節)。ところが、律法学者は、「この男は神を冒瀆している」と心の中でイエス・キリストを批判した(3節)。彼らには、その人の罪が赦され、その人が元気づけられることを喜ぶ心は全くなかったのである。
また、「徴税人や罪人」が「大勢」イエス・キリストのもとに「やって来て」、「食事」を共にしながらその教えに耳を傾けていると(10節)、ファリサイ派の人々は、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と弟子達を非難した(11節)。彼らは、罪人を裁くことには長けていたが、罪人が悔い改めて救われることを願う心は全くなかった。
更に、イエス・キリストが、「悪霊に取りつかれて口の利けない人」から悪霊を「追い出」して、「ものを言」うことが出来るようにされると(32~33節)、ファリサイ派の人々は、「あの男は悪霊の頭の力で悪霊を追い出している」と言って、イエス・キリストを悪霊呼ばわりさえした(34節)。このように、彼らの関心は自分達の掟と信条が守られることにしかなく、目の前の人々の救いや癒しには全く興味がなかった。
このような人々に対してイエス・キリストが言われたのが、次の御言葉である。
「『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』とはどういう意味か、行って学びなさい」(13節)。
これはまさにイエス・キリストの生き方そのものであった。
「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた」(35~36節)。
ここに、信仰の大事な本質が示されているのではないだろうか。
西原新生バプテスト教会
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