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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 ルカによる福音書15章

聖書日課 ルカによる福音書15章(新共同訳 新約pp.138-140)

「言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」(7節)。

 なくしていた物が見つかるというのは、嬉しいものである。まして、それが物ではなく、あなたが愛する人であったら、その喜びはどんなに大きなものだろうか。

 15章では、そういう喜びが3つのたとえを通して教えられている。「見失った羊」のたとえ(1~7節)、「無くした銀貨」のたとえ(8~10節)、「放蕩息子」のたとえ(11~32節)は皆、主なる神から離れていた罪人が、悔い改めて主なる神のもとに帰って来た時の喜びについて語っている。それは天における喜びである。即ち、主なる神の天使達の喜びであり、父なる神の喜びである。

 ところが、それを少しも喜べない人がいた。それが、ファリサイ派の人々や律法学者達、つまり、当時の宗教指導者である。彼らは、徴税人や罪人が、話を聞こうとしてイエス・キリストに近寄って来たのを見て(1節)、「この人は罪人たちを迎えて、食事まで一緒にしている」と不平を言い出した(2節)。

 何故だろうか? どうして彼らは、それを不満に思ったのだろうか? 彼らは、自分は正しく生きている、罪など犯さず頑張って生きていると思っていたからである。それ故、罪人が裁かれず、イエス・キリストと一緒に喜びながら食事をしている姿を見て、腹立たしく思ったのである。

 彼らはまさに、「放蕩息子」の兄そのものであった。弟が放蕩の果てに身も心もボロボロになってようやく帰って来た時、父親は弟を大喜びで迎え入れて祝宴を始めた。しかし、兄はそのような父親を見て、怒りをぶつけた。

「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」(29~30節)。

 この時、兄の心は、真面目に頑張ってきた自分こそ宴会を開いてもらって当然だという高慢な思いと、弟に対する軽蔑の思いで一杯になっていた。遠く離れていた弟は帰って来た。しかし、近くにいた兄は、父親の心から遠く離れていた。謙遜な心と愛する心、それが何よりも大切である。

「すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか』」(31~32節)。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町字内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
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