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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 エゼキエル書1章

聖書日課 エゼキエル書1章(新共同訳 旧約pp.1296-1297)

 エゼキエルは、エレミヤと同時代に預言者として立てられた人物である。またエゼキエルは、エレミヤと同様に「祭司」の家系の出身だった。ただ一つエレミヤと違っていたのは、エレミヤが主にエルサレムで活動したのに対し、エゼキエルは、ヨヤキン王と共に捕囚の民として連れ去られ、バビロンの地で預言をしたということである。

「第三十年の四月五日のことである。わたしはケバル川の河畔に住んでいた捕囚の人々の間にいたが、そのとき天が開かれ、わたしは神の顕現に接した。それは、ヨヤキン王が捕囚となって第五年の、その月の五日のことであった。カルデアの地ケバル川の河畔で、主の言葉が祭司ブジの子エゼキエルに臨み、また、主の御手が彼の上に臨んだ」(1~3節)。

 彼らはカルデアの地ケバル川の河畔」に住んでいた。「捕囚となって」既に「五年」。かつて神の民は、主なる神の栄光に輝いていた。しかし、今や何の光も輝きもなかった。人々は気力を失い、希望を失っていた。

 しかし、エゼキエルが主の言葉を聞いたのは、まさにそのような時であった! 悲しみのどん底、絶望のど真ん中で、主は彼の上に「御手」を伸ばし、御「声を聞」かせて下さった。

「周囲に光を放つ様は、雨の日の雲に現れる虹のように見えた。これが主の栄光の姿の有様であった。わたしはこれを見てひれ伏した。そのとき、語りかける者があって、わたしはその声を聞いた」(28節)。

 絶望の闇の中にいたエゼキエルは、そこで「主の栄光の姿」を見た。そして、御前に「ひれ伏した」エゼキエルの耳に、主なる神の御声が響き渡った。主なる神は彼らを見捨てられてはいなかった。主なる神は捕囚の民と共にあり、彼らを包み守っておられた。

 信仰とは、望み得ない時になお望みを抱き、闇の中になお光を見出していくことである。目に見えるところは何もなくても、「主の栄光の姿」を見ていくところに希望が湧き上がる。そして、その希望は決して私達を裏切ることはない。

「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです」(ローマの信徒への手紙5章3節後半~5節)。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119

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