聖書日課 エレミヤ書52章(新共同訳 旧約pp.1280-1282)
エレミヤ書の最終章には、まず「エルサレムの陥落と捕囚」の出来事が記されている(1~30節)。その中で、ユダ王国最後の王となったゼデキヤについて、「彼は…、主の目に悪とされることをことごとく行った」と書かれている(2節)。
「ゼデキヤは二十一歳で王となり、十一年間エルサレムで王位にあった。その母は名をハムタルといい、リブナ出身のイルメヤの娘であった。彼はヨヤキムが行ったように、主の目に悪とされることをことごとく行った。エルサレムとユダは主の怒りによってこのような事態になり、ついにその御前から投げ捨てられることになった。ゼデキヤはバビロンの王に反旗を翻した」(1~3節)。
11年間にわたるゼデキヤ王の治世は、群雄割拠の時代を何とか生き残ろうとする努力の日々であり、人間的に見れば、彼なりに知恵を尽くした治世だったのかも知れない。しかし、それはあくまでも人間の目による判断であり、「主の目」とは全く違っていた。聖書においては、主なる神の御前にどう生きたかが一人の人間に対するただ一つの評価の基準である。
その治世中、ゼデキヤ王は何度も預言者エレミヤを呼び出して、主の御心を尋ねた。エレミヤは、恐れず、包み隠すことなく、主の御心を王に語った。即ち、バビロンに降伏せよと。
しかし、王は結局、主なる神の御心に従うことはなかった。ゼデキヤ王の目には、バビロンに降伏することが、恐ろしく見えたのだろう。それよりエジプトに頼る方が安心に思えた。しかし、それは主なる神の御心に対する反逆であり、ゼデキヤは結局、主なる神に依り頼んで生きる道を選ばなかったということを意味していた。こうしてユダは滅び、数千人もの人々がバビロンへと連れ去られて行った。
しかし、エレミヤ書は、この悲しい出来事で終わってはいない。
「ユダの王ヨヤキンが捕囚となって三十七年目の十二月二十五日に、バビロンの王エビル・メロダクは、その即位の年にユダの王ヨヤキンに情けをかけ、彼を出獄させた」(31節)。
ヨヤキンはダビデ王の血を受け継ぐ正統の王である。その彼が、長い「捕囚」の年月を生き延びて、牢獄から解放され、名誉を回復したというのである。主なる神は、決して神の民を見捨ててはおられなかった! そして、神の民イスラエルの解放の日が近づいていた!
西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00
〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
メールアドレス