聖書日課 エレミヤ書51章(新共同訳 旧約pp.1275-1280)
前章に続いて、51章にも「バビロン」滅亡に関する預言が記されている。
「主はこう言われる。『わたしはバビロンに対し/レブ・カマイ(カルデア)の住民に向かって/滅びの風を巻き起こす。わたしはバビロンに外敵を送る。彼らはバビロンをふるいにかけ/その国土を裸にする。災いの日に、彼らは四方からバビロンに迫る。』弓を射る者に弓を張らせ/鎧を着けて身構えさせよ。バビロンの若者たちを惜しんではならない。その軍をすべて滅ぼし尽くせ。カルデア人の国には、殺された者が/路上には、刺された者が倒れる。イスラエルとユダは/その神、万軍の主に見捨てられてはいない。カルデア人の国には罪が満ちている/イスラエルの聖なる方に背いた罪が」(1~5節)。
主なる神は、「バビロン」を用いて国々の罪を裁き、諸王国を滅ぼした(20~23節)。しかし、今度はその「バビロン」自身の罪が裁かれるのである。
「しかし、わたしはバビロンと/カルデアの全住民に対し/お前たちの目の前で報復する。彼らがシオンで行ったあらゆる悪に対してと/主は言われる。滅びの山よ、見よ、わたしはお前に立ち向かうと/主は言われる。全世界を滅ぼす者よ/わたしは手を伸ばしてお前を捕らえ/断崖から転がして落とし、燃え尽きた山にする。お前の石を取って隅の石とする者はないし/土台の石とする者もない。お前はとこしえに荒れ果てたままだと/主は言われる」(24~26節)。
栄華の限りを誇った「バビロン」は、主の「手」によって裁かれ、瞬く間に、「滅びの山」、「燃え尽きた山」となり、「とこしえに荒れ果てたまま」となると言われている。人間の目には、どんなに強大に見えても、主なる神の前には、主なる神の「手」の中で用いられる器に過ぎない。
その一方で、人の目には小さく弱い存在でしかない「イスラエルとユダは、その神、万軍の主に見捨てられてはいない」と語られている(5節)。これは、「イスラエルとユダ」に何か特別な力があったというのではない。主なる神が彼らを愛し、選ばれた、ただこのことの故に彼らは守られ、助けられた。
罪の故に滅亡の苦しみを味わったイスラエル。しかし、彼らはその苦しみの中で、罪を悟り、悔い改めて主なる神に立ち帰った。そして、彼らの神を心から慕い求める者となった。そのような彼らを、主なる神が見捨てられる筈はない。
「主を愛する人は悪を憎む。主の慈しみに生きる人の魂を主は守り/神に逆らう者の手から助け出してくださる」(詩編97編10節)。
西原新生バプテスト教会
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