聖書日課 エレミヤ書21章(新共同訳 旧約pp.1215-1216)
「バビロンの王ネブカドレツァル」が、エルサレムに攻め上ろうとしていた。その時、ユダ王国の最後の王となった「ゼデキヤ」は、預言者エレミヤに使者を遣わして言った。
「どうか、わたしたちのために主に伺ってください。バビロンの王ネブカドレツァルがわたしたちを攻めようとしています。主はこれまでのように驚くべき御業を、わたしたちにもしてくださるかもしれません。そうすれば彼は引き上げるでしょう」(2節)。
この期に及んでも、ゼデキヤ王もユダの指導者も、自分達がどのような状況にいるのか全く分かっていなかった。主の臨在は、既にエルサレムを離れ去っていた。長い年月にわたる主の警告と戒めにもかかわらず、彼らが主に逆らって、好き勝手な道を歩み続けていたからである。
勿論、彼らは表面的には信仰を保っていた。エルサレムには神殿があり、儀式が盛んに行われていた。しかし、そこには主の御言葉に聞き従おうとする心も行為も全くなかった。それどころか、彼らは相変わらず異教の偶像を取り入れ、他国の力に頼ることで生き延びようとしていた。
今や、彼らが生き延びる道は、バビロンに「降伏」する以外残されていなかった。
「あなたはこの民に向かって言うがよい。主はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの前に命の道と死の道を置く。この都にとどまる者は、戦いと飢饉と疫病によって死ぬ。この都を出て包囲しているカルデア人に、降伏する者は生き残り、命だけは助かる」(8~9節)。
しかし、それは単にバビロンに「降伏」すればよいということではない。そこには、単なる敗北以上の意味があった。彼らは、自分達の罪を悟り、悔い改めて主の御手に全てを委ねることが求められていた。
主なる神は、確かに彼らの罪を裁かれた。しかし、それは彼らを滅ぼし尽くすためではなく、彼らを生き延びさせ、主なる神に立ち帰らせて、再び祝福するためだった。つまり、バビロン捕囚という最低最悪の状況の中でも、主なる神は彼らと共におられ、彼らを再起させるために守り導き続けておられた。
たとえ人は裏切ることはあっても、主なる神は決して裏切ることはない! 主なる神は、いつまでもどこまでも、私達への約束を忠実かつ誠実に果たして下さる。それ故、私達も主なる神への忠実、誠実な信仰をもって応えていきたいと思う。
西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00
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