聖書日課 哀歌1章(新共同訳 旧約pp.1283-1285)
預言者エレミヤによるものであると言われる哀歌は、エルサレムとその神殿の崩壊に対する嘆きと悲しみに溢れた5つの歌から成っている。
「なにゆえ、独りで座っているのか/人に溢れていたこの都が。やもめとなってしまったのか/多くの民の女王であったこの都が。奴隷となってしまったのか/国々の姫君であったこの都が。夜もすがら泣き、頬に涙が流れる。彼女を愛した人のだれも、今は慰めを与えない。友は皆、彼女を欺き、ことごとく敵となった。貧苦と重い苦役の末にユダは捕囚となって行き/異国の民の中に座り、憩いは得られず/苦難のはざまに追い詰められてしまった」(1~3節)。
しかし、これは決して単なる嘆きの歌ではない。勿論、納得の行かない出来事に対する愚痴とか不平不満などでもない。
「シオンの背きは甚だしかった。主は懲らしめようと、敵がはびこることを許し/苦しめる者らを頭とされた。彼女の子らはとりことなり/苦しめる者らの前を、引かれて行った」(5節)。
「背いたわたしの罪は御手に束ねられ/軛とされ、わたしを圧する。主の軛を首に負わされ/力尽きてわたしは倒れ/刃向かうこともできない敵の手に/引き渡されてしまった」(14節)。
このように、作者は、自らの犯した「罪」を率直に認めて、苦難を受けとめている。そして更に、その苦しみの中でなお主なる神に向かって「慰め」と赦しを求めて祈った。
「御覧ください、主よ、この苦しみを。胸は裂けんばかり、心は乱れています。わたしは背きに背いたのです。外では剣が子らを奪い/内には死が待っています。聞いてください、わたしの呻きを。慰めてくれる者はありません。敵は皆、わたしの受けた災いを耳にして/あなたの仕打ちを喜んでいます」(20~21節)。
悲しく残念なことだが、私達も罪に陥ることがある。そのような時、大切なことは、主なる神の臨在から決して逃げ出さないこと、そして、強がったり突っ張ったりせずに、素直に罪を認め、悔い改めて、率直に赦しと慰めを祈り求めることである。素直さと率直さ、この両面を私達はしっかり保ち続けていたいものである。
「主は打ち砕かれた心に近くいまし/悔いる霊を救ってくださる」(詩編34編19節)。
祈り
愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの憐れみと慈しみの中に私達を握り、御前に引き出し、祈りを与えて下さることを感謝致します。
主よ、あなたを否定して罪の苦しみの中に倒れ、健康も失っていたあの日々を思い返します。私はあなたのいないところに自分の身を置こうとしました。しかし、あなたはそこにいて、自分と人を傷つける私を見ておられました。私の声を聞いておられました。
私はあなたのところに帰らなければならないと思いました。しかし、どうしたらあなたのところに帰れるか、私には分かりませんでした。私にはあなたのおられる所が分かりませんでした。私は絶望しました。
しかし、あなたは私を下から支えて下さっていました。あなたは、私を引き上げ、癒し、新しくして下さいました。そして、あなたは時間をかけて今の私へと導いて下さいました。
あなたをほめたたえます。
どうか、痛みと苦しみの中に喘ぐあなたの子供達と今日も共にあり、その声に耳を傾け、その心をあなたへと向けることが出来るよう、導いて下さい。
感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
西原新生バプテスト教会
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