聖書日課 詩編147編(新共同訳 旧約pp.987-988)
第147編は、主をほめたたえることの喜びを歌っている詩である。そして、主がどのような方であり、いかに「賛美」に相応しい方であるかが描かれ、示されている。全体をじっくり読み味わいつつ、主なる神のイメージを心に描いていただきたいと思う。
「ハレルヤ。わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく/神への賛美はいかに美しく快いことか。主はエルサレムを再建し/イスラエルの追いやられた人々を集めてくださる。打ち砕かれた心の人々を癒し/その傷を包んでくださる」(1~3節)。
その中から私の心に残った御言葉を2つ紹介したい。一つは、上記の2節と3節である。そこではバビロン捕囚からの解放について語られているが、主は、外面的な解放と共に内面的な「癒し」を与えて下さる方であると言われている。
しかし、その癒しは、エルサレムの再建に象徴される主なる神への〈信仰の再建〉と決して無関係ではない。主なる神への信頼と主なる神との交わりの回復があってこそ、「打ち砕かれた心」と「傷」の真の「癒し」がある。それは単なる心理的な傷の癒しではない。霊的・道徳的な〈罪の赦しと清め〉から得られる癒しである。
もう一つの御言葉は、10節と11節である。
「主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく/人の足の速さを望まれるのでもない。主が望まれるのは主を畏れる人/主の慈しみを待ち望む人」(10~11節)。
この世はまさに、「馬の勇ましさ」を求め、「人の足の速さ」を望む世界である。速さや能率や優秀さが賞賛され、遅くて、要領が悪くて、劣っていると、人間としての価値が低いと評価されてしまう。
しかし、主なる神は決してそのようなものを人に求めてはおられない。「主が望まれるのは主を畏れる人/主の慈しみを待ち望む人」とあるように、主なる神への信頼と畏敬の心、それが主が私達に望んでおられることである。
何だかとてもホッとする。しかし、同時に、驕り易い者への戒めとしても心に響いてくる。何故なら、主を畏れることは、主の御前に謙ることでもあるからである。
祈り
愛する天のお父様、あなたの尊い御名を心からほめたたえます。今日もあなたの憐れみと愛に支えられて生きていること、御前に祈りを献げられることを心から感謝致します。
名もない「星」の一つ一つを創造し、それに「呼び名をお与えにな」り、覚えていらっしゃる天のお父様、あなたは、このような者をも覚えて下さるのですか。このような者にも価値を創造し、語りかけて下さいます。「お前は私の傍にいろ」と。
この僕は、なかなか尊く生きることが出来ず、申し訳なく思います。しかし、私の価値が自分の行いによるのではなく、創造して下さったあなたからやって来るのであれば、今日も希望をもって生きていきたいと思います。主よ、どうか支えて下さい。
自分の価値や存在意義を見出すことが出来ずに苦しんでいるお一人お一人を支えて下さい。どうかお一人お一人にあなたご自身が語りかけ、名を呼んで力づけて下さい。お一人お一人でなければならない理由をあなたご自身がお示し下さいますよう、心からお願い致します。
感謝して、尊いイエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
西原新生バプテスト教会
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