聖書日課 ヨブ記29章(新共同訳 旧約pp.811-812)
29章から31章にかけて、ヨブの嘆きの言葉が再び語られる。しかし、この嘆きの言葉は、単なる愚痴や独り言ではなく、主なる神に向けられた言葉である。それは、29章で苦難を受ける前の幸いな日々が回顧され、30章で現在の悲惨な状況が語られ、31章で自分の身の潔白が改めて主張されていることからも分かる。
「ヨブは言葉をついで主張した。どうか、過ぎた年月を返してくれ/神に守られていたあの日々を。あのころ、神はわたしの頭上に/灯を輝かせ/その光に導かれて/わたしは暗黒の中を歩いた。神との親しい交わりがわたしの家にあり/わたしは繁栄の日々を送っていた。あのころ、全能者はわたしと共におられ/わたしの子らはわたしの周りにいた」(1~5節)。
かつてヨブは、「神に守られ」、主なる神の「光に導かれ」、「神との親しい交わり」があり、主なる神が「共におられ」る幸福の中にあった。ヨブにとって幸福は、豊かな財産や社会的地位ではなく、主なる神と交わり、主なる神と共に歩み、主なる神の光の中に守られていることにあった。それは恵みによって主なる神の僕とされた者の幸いだった。
また、ヨブは、世の人々に尊敬される人物であった(7~11節)。勿論、それは金や地位に物を言わせて勝ち取った「敬意」などではない(8節)。「身寄りのない子ら」、「貧しい人々」、「死にゆく人」、「やもめ」、「見えない人」、「歩けない人」などに親身に仕える生き方を通して受けた真実な尊敬の心だった(12~13節、15~17節)。主なる神がそのような者に目を留めて下さる御方であるように、主の僕であるヨブも、社会の中で忘れ去られている人々に目を留め、手を差し伸べた。それ故、ヨブは信じていた。
「わたしは家族に囲まれて死ぬ。人生の日数は海辺の砂のように多いことだろう。わたしは水際に根を張る木/枝には夜露を宿すだろう。わたしの誉れは常に新しく/わたしの弓はわたしの手にあって若返る」(18~20節)。
それは恵み深い主なる神への信仰による確信だった。
人々もまた、そのようなヨブの言葉を「待ち望み」、彼の言葉によって潤され(21~22節)、その言葉によって慰めと導きをもらい、彼の「笑顔」によって励ましを受けた(25節)。ヨブは「王のような人物」として人々から敬われ、信頼されていた(25節)。それは、主なる神が「わたしの僕」と呼ばれた主の僕としての姿そのものであった(1章8節)。主の僕として生きることは、何と素晴らしいことだろう!
西原新生バプテスト教会
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