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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 ヨブ記30章

聖書日課 ヨブ記30章(新共同訳 旧約pp.812-814)

 主の僕ヨブは、かつて大いなる繁栄と人々の尊敬の中にあった。しかし、今や人々の嘲りと軽蔑の対象となってしまった。

「だが今は、わたしより若い者らが/わたしを嘲笑う。彼らの父親を羊の番犬と並べることすら/わたしは忌まわしいと思っていたのだ。その手の力もわたしの役には立たず/何の気力も残っていないような者らだった」(1~2節)。

 これはヨブの嘆きの言葉である。以前は、高い身分の人々からも敬われていたヨブが、今では、世間から除け者にされているような人々にさえも笑い者とされている。つまり、世の人々が皆ヨブを「嘲笑」い、忌み嫌うようになってしまったというのである。

 しかし、ヨブは決して自棄になっていたわけではない。深く嘆きつつも、それでも主なる神に向かってこう叫んでいる。

「神よ/わたしはあなたに向かって叫んでいるのに/あなたはお答えにならない。御前に立っているのに/あなたは御覧にならない。あなたは冷酷になり/御手の力をもってわたしに怒りを表される。わたしを吹き上げ、風に乗せ/風のうなりの中でほんろうなさる」(20~22節)。

「わたしの胸は沸き返り/静まろうとしない。苦しみの日々がわたしに襲いかかっている。光を見ることなく、嘆きつつ歩き/人々の中に立ち、救いを求めて叫ぶ」(27~28節)。

 祈っても、「叫んで」も、一向に「答え」て下さらない主なる神に向かって、ヨブはそれでも諦めることなく、その思いの丈を必死にぶつけた。或る意味で、これは究極の信仰の姿と言えるかも知れない。詩編の中にも、これとよく似た表現が多く見られるが、このような信仰の表現もあることを、私達は知っておきたい。

「兄弟たち、主の名によって語った預言者たちを、辛抱と忍耐の模範としなさい。忍耐した人たちは幸せだと、わたしたちは思います。あなたがたは、ヨブの忍耐について聞き、主が最後にどのようにしてくださったかを知っています。主は慈しみ深く、憐れみに満ちた方だからです」(ヤコブの手紙5章10~11節)。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
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