聖書日課 申命記25章(新共同訳 旧約pp.319-320)
主なる神の配慮に満ちた律法は続く。主なる神は、正しい裁きをなすように命じつつも、罪人が受ける刑罰である「鞭打ち」が「四十回」を越えることを禁じられた。それ以上打つことは、必要以上の辱めを受けることになるからである。
「二人の間に争いが生じ、彼らが法廷に出頭するならば、正しい者を無罪とし、悪い者を有罪とする判決が下されねばならない。もし有罪の者が鞭打ちの刑に定められる場合、裁判人は彼をうつ伏せにし、自分の前で罪状に応じた数だけ打たせねばならない。四十回までは打ってもよいが、それ以上はいけない。それ以上鞭打たれて、同胞があなたの前で卑しめられないためである」(1~3節)。
人は感情に任せて、余計に打ってしまうものである。主なる神は行き過ぎた刑罰を禁じられた。
次に、主なる神は「脱穀している牛に口籠を掛けてはならない」と命じている(4節)。「口籠」とは、牛が穀物を食べないよう、口を塞いでしまう道具である。牛も労働をしているわけだから、収穫の分け前を食べさせてやるよう、主なる神は求められた。家畜である牛にさえ配慮される主なる神は、私達に対しては、それ以上に配慮して下さる。
「子供を残さずに死んだ」者の「妻」について、主なる神は、「亡夫の兄弟」が「めとって妻として」、子を授かるように命じている。それは、第一に、「彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ」るためであり、第二に、未亡人という弱い立場にある彼女に対する配慮である。
「兄弟が共に暮らしていて、そのうちの一人が子供を残さずに死んだならば、死んだ者の妻は家族以外の他の者に嫁いではならない。亡夫の兄弟が彼女のところに入り、めとって妻として、兄弟の義務を果たし、彼女の産んだ長子に死んだ兄弟の名を継がせ、その名がイスラエルの中から絶えないようにしなければならない」(5~6節)。
更に、主なる神は「あなたは袋に大小二つの重りを入れておいてはならない。あなたの家に大小二つの升を置いてはならない」とお命じになっている(13~14節)。
「重り」とは、天秤で重さを量るときの基準として使う石のことである。それが「大小二つ」あるのは、誤魔化すためである。「大小二つの升」も同じである。二つの基準を自分の都合に合わせて使い分ける。このような誤魔化しの商売をやることを、主なる神は禁じられた。
商売だけでなく、日常生活でも同じである。或る人にはこう言うが、別の人には違うことを言う。そのような人は「大小二つの重り」を持っている。或る人には重箱の隅を突くように責めるのに、別の人には寛容な態度を取る。そのような人は「大小二つの升」を持っている。
私達は一つの尺度を持つべきである。そして、その尺度は主なる神の基準に沿った尺度であることが望ましい。そうでないと、私達は「自分の目の中の丸太に気づか」ず、「兄弟の目にあるおが屑」を指摘し、責める「偽善者」になってしまう(マタイによる福音書7章3~5節)。
調べてみよう。自分の「袋に大小二つの重り」が入っているダブルスタンダードに陥ってはいないかと。
西原新生バプテスト教会
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