聖書日課 申命記26章(新共同訳 旧約pp.320-321)
主なる神は、イスラエルの民に「初物」をご自分への献げ物とするように命じている。
「あなたの神、主が嗣業の土地として得させるために与えられる土地にあなたが入り、そこに住むときには、あなたの神、主が与えられる土地から取れるあらゆる地の実りの初物を取って籠に入れ、あなたの神、主がその名を置くために選ばれる場所に行きなさい」(1~2節)。
日本では「初物」は縁起物として珍重されてきた。人々は縁起を担いでその御利益に与ろうとした。しかし、聖書では「初物」は主なる神への献げ物として記されている。
「初め」のものは、いかなるものであれ、主なる神のものであるという考え方である。何故なら、「初め」は主なる神から来るからである。
「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネによる福音書1章1節)。
「初めに神は天地を創造された」(創世記1章1節)。
「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(コリントの信徒への手紙一15章20節)。
イエス・キリストが復活されたのも「週の初めの日」である(マタイによる福音書28章1節、マルコによる福音書16章2節、ルカによる福音書24章1節、ヨハネによる福音書20章1節)。私達が毎週献げる礼拝も「週の初めの日」である(使徒言行録20章7節)。「初め」に主なる神を意識し、週の「初め」を主なる神のものとして献げる。これを人生の基本とすることは幸いである。
さて、その「初物」を献げる時の祈りの言葉が記録されている。その内容は、自分達が主なる神から召され、奴隷の地「エジプトから導き出」され、「乳と蜜の流れる」土地を「与えられ」たこと、その地で主なる神から「地の実りの初物」を「与えられた」ことに感謝を献げるというものである。
「わたしの先祖は、滅びゆく一アラム人であり、わずかな人を伴ってエジプトに下り、そこに寄留しました。しかしそこで、強くて数の多い、大いなる国民になりました。エジプト人はこのわたしたちを虐げ、苦しめ、重労働を課しました。わたしたちが先祖の神、主に助けを求めると、主はわたしたちの声を聞き、わたしたちの受けた苦しみと労苦と虐げを御覧になり、力ある御手と御腕を伸ばし、大いなる恐るべきこととしるしと奇跡をもってわたしたちをエジプトから導き出し、この所に導き入れて乳と蜜の流れるこの土地を与えられました。わたしは、主が与えられた地の実りの初物を、今、ここに持って参りました」(5~10節)。
このように祈ることで、自分達が何者であるかを忘れないよう、主なる神は配慮された。豊かになることで、主なる神への感謝を忘れ、何の目的で今があるのかを忘れてしまうのが、人の愚かさである。
新約に至って、主イエス・キリストは、〈主の祈り〉を献げるよう命じられた。これもまた、私達の信仰の基礎となるものである。
祈りというと、私達は何か願い事をすることだと思ってしまう。そして、その願い事の殆どは、自分に都合の良いことが起きるようにという、自分中心、人間中心のものである。
しかし、〈主の祈り〉は、「天におられるわたしたちの父」の「御名が崇められ」ること、主なる神の「御国が来」ること、主なる神の「御心が行われ」ることを祈る。自分のための願いは、「わたしたちに必要な糧」が「今日与え」られること、「わたしたちの負い目」が赦されること、私達が「誘惑」から守られ、「悪い者から救」われることだけである(マタイによる福音書6章9~13節)。
ここに、人間のあるべき姿、主なる神が目指しておられる姿が見えてくる。〈主の祈り〉を祈る度に、私達は軌道修正をされる。主なる神が命じられる祈りを献げよう。
西原新生バプテスト教会
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