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沖縄県中頭郡西原町にあるプロテスタント教会です。毎週日曜日10:30から礼拝をささげています。家のような教会で、御言葉の分かち合いと祈りを大切にしています。2022年9月に伝道開始50周年を迎えました。

聖書日課 申命記10章

聖書日課 申命記10章(新共同訳 旧約pp.297-298)

 モーセの説教は、イスラエルが何度も主なる神に背いてきたことを顧みている。彼らの反逆の原因は「かたくな」さである。心が強情で、主なる神が言われることを受け入れなかった。

「心の包皮を切り捨てよ。二度とかたくなになってはならない」(16節)。

「かたくな」は、新改訳では「うなじのこわい者」と訳されている。家畜に手綱を付けて引っ張る。しかし、家畜がうなじ(首筋)を固くし、主人が手綱を引いても、そちらの方向に首を曲げない。そのような状態のことである。「こわい」は「固い」という意味である。

「救いの道はこちらだ」「祝福の道はこちらだ」と、主なる神は手綱を引くようにして導かれる。しかし、強情な人間は首を曲げない。

「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と救いの方へ手綱を引いても(マルコによる福音書1章15節)、自分が罪人であることを認めず、悔い改めない。それが「かたくな」な民である。「うなじのこわい者」である。

 自分は正しい。自分は間違っていない。何故悔い改めなければならないのか。そのような固い心は砕かれなければならない。

 そのことを、モーセ「心の包皮を切り捨てよ」と表現している。口語訳は「あなたがたは心に割礼をおこない」と訳している。

「割礼」とは男性器の包皮を切り取ることである。ユダヤ人は、自分達が神の民である証拠として割礼を施した。しかしそれは、新約における〈心の割礼〉を預言する儀式であった。

「包皮」が性器を覆っているように、「かたくな」な心が、柔らかい心を覆ってしまっている。「柔らかい心」とは、主なる神を愛し、主なる神に従おうとする純真な心である。よく耕された「柔らかい心」は、主なる神の御言葉の種を蒔くに相応しい心である。

 しかし、そのためには、それを覆っている「かたくな」な心(強情な心)が砕かれなければならない。だから、主なる神は、「かたくな」な心が砕かれるために試練を通過させられる。荒れ野の訓練をお与えになる。

 このような主なる神の取り扱いを受ける人は幸いである。主なる神によって砕かれるという経験をした人は幸いである。その人は〈心の割礼〉を受けるからである。

 しかし、主なる神の訓練を避け、上手に逃げ回っている人は、「かたくな」な心がそのままである。その人生は順調かも知れない。大きな失敗もなく、自慢出来る経歴かも知れない。しかし、順調な人生も、その「かたくな」な心の故に、やがて大きな代償を支払うことになるだろう。

 主なる神は何故イスラエルの民にこれほど多くの試練を通らせたのか。それは彼らの「打ち砕かれた霊」を得るためである。「打ち砕かれ悔いる」イスラエルを用いて、主なる神は偉大な働きをさせようと計画されている(詩編51編19節)。

 あなたは〈心の割礼〉を受けただろうか。それは、聖霊なる神があなたの心を奥底から取り扱われることである。聖霊なる神は、鋭い「霊の剣、すなわち神の言葉」をもって私達の心を切り裂き(エフェソの信徒への手紙6章17節)、肉の心と霊の心を切り分けられる。

 その時、私達は痛い思いをする。御言葉など聞きたくないと思う時もあるかも知れない。しかし、聖霊なる神の御手を信頼しよう。〈心の割礼〉という痛みの後には、「愛」「喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」といった「霊の結ぶ実」が用意されている(ガラテヤの信徒への手紙5章22節)。

西原新生バプテスト教会
主日礼拝 毎週日曜日10:30~12:00

〒903-0121 沖縄県中頭郡西原町内間27-2
電話・FAX 098-946-0119
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